8月7日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
(ルカによる福音書 12章32~48節)

「忠実で賢い管理人」

本日の御言葉は、「小さな群れよ」という主の言葉から始まります。「群れ」(ポイムニオン)は「羊の群れ」のことです。先週の御言葉にて、お語りした如くに、主は「羊飼い」、私共は「羊の群れ」です。本日の御言葉は、私共(主の弟子)に語られた御言葉です。その冒頭にて主は、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」とあります。本日の御言葉の「要」となる文章です。以前の口語訳では、「御国を下さることは、あなたがたの父の御心なのである。」とありました。父の「喜び」(ユードキオー)を「御心」と訳したのです。これは妥当な訳で、「御心に適う人」のことを(ユードキアス)と言い、「(神の幸いに)満たされる人」「神から喜ばれる人」という意です。ですから、この文章の意味は、「私共が教会で聖霊に満たされる喜び(天国)を持ち続けることが神の喜び(満たし)である」という解釈になります。これは大切な真実です。主イエスは私共に「御言葉」を与えられました。その「御言葉」は主イエスを信じる信仰によりて、「宝」となります。この「宝」は、私共を「神の国の中にある喜び(富)」にて満たします。私共の持ち物を売り払って施しを為してもなお、「おつり(尽きることのない富)」が来る「富」です。この「富」は決して失ってはならないものです。失うことは神の悲しみとなります。この富を失わない方法はあるのでしょうか。主は語られました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」と。主は、この後に「四つの譬」を語られました。初めの譬は(35-40)です。コンチェントリックの技法が用いられています。その中心の言葉は「そばに来て」(パレルコーマイ)です。「神顕現」を表す言葉です。この文章は「未来形」で書かれています。主は「終末の宴」(イザヤ25章)(帯を締めて僕に給仕をする主人(神))を語られたのです。ペトロの問いに返して主は、更に続けて、弟子が「目を覚ましている」大切さを語られました。「腰に帯を締めて、ともし火をともす」これは先週に語りました「飼い主わが主の姿」です。「互いに仕え合う」「互いに愛し合う」「造り主の姿に倣う」本日の資料の「主の洗足」の姿です。私共は「御言葉(天国)の管理人」です。全ての人に公平に「御言葉(天国)」を分けていく「忠実で賢い管理人」として生きていく責任があります。私共は与えられた御言葉(天国)に忠実に歩んで参りましょう。互いに仕え合い、キリストの喜びを灯しましょう。