「聖 書」
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
(ヘブライ人への手紙 12章1~4節)
「自分に定められている道」
本日は教会の根底を支えるものの話を致します。私は長い間、がんばってきたクリスチャンでした。私には自己義認が必要だったのです。がんばることが認められること、愛されることの条件であると思っていたのです。私は「ありのまま」の自分を否定していました。私はクリスチャンとして生きるようになっても「罪人」でした。先週お語りしたように、神は私共に「天国を与える」ことを喜びとされる方です。私は天国の住人とされた後も、「天国の喜び」に満たされることのない生活を送り、神に悲しい思いをさせ続けていました。皆さんはどうでしょう。天国の喜びで満たされていますか。もし天の喜びを失っているとしたら、それは罪の結果です。悪に支配されている結果です。神はキリストを世に送られ、キリストの福音を信じる者に、神との関係の回復「平和」を与えられました。私共には罪に勝利する道が備えられました。このことが確実なことは、本日の御言葉が証ししています。「こういうわけで、わたしたちも証人の群れに囲まれている以上、罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」この意味は前節のものを受けたものです。前節部には「信仰者の生涯」が記されています。彼らは信仰のゆえに神に認められた者であったが「約束されたもの」を手にすることはできなかったとあります。「約束されたもの」とは「天国の現在性」です。ですから先ほどの御言葉は、私共が信仰者の道を忍耐強く歩む時に「天国の喜びはある」の意味が込められています。私共には「天国の現在性」が用意されています。しかし、それは隠遁生活ではありません。世の戦い、罪との戦いもある中でのものです。「競争」は(アゴーン)で、「競技、戦い、苦闘」を意味します。私は説教題に「競争」を「道」と致しました。次週の「まっすぐな道」(仲村堪師、シラ書2章、箴言3章)にも掛けています。この「道」は「自分に定められている戦い」なのです。しかし、この「戦い」は天国を「完全な状態にする」ものです。感謝の道です。私共は一人ではありません。おびただしい証人がいます。兄弟姉妹がいます。主が共におられます。本日の週報を御覧下さい。(Run With Patience)Patienceは忍耐です。原文は(ヒュポモネー)で「下に留まる」の意です。主は私共を愛し、今も私共の下に留まり私共の根底を支え続けて下さっています。主は今も私共の罪と共に戦っておられます。