「聖 書」
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
(ヘブライ人への手紙 12章5~13節)
「まっすぐな道を歩く」
先週の説教題は「自分に定められている道」でした。キリスト者の道は己の足で歩んで行くものです。(12:13)「自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」の通りです。しかし、この言葉は先に「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように」とあります。私共キリスト者の歩む道は「弱い人」「小さい人」の為にあると言う意味です。これは如何なる意か。このことは以前の説教でも語りました。(2019.8.25)13節の御言葉を直訳すると「自分の足でまっすぐな轍を作りなさい」であると語りました。「轍」は車輪の跡で、道に跡(轍)が出来ると荷車が通りやすいのです。この意味を踏まえて、私共には先達が作られた「道」があると解き明かししました。そして、バックストン師の祖父トーマスは「奴隷解放の道」を作った一人であり、孫のバックストン師は、その祖父の作った「愛の道」を歩んで行かれたとも語りました。私共は、そのような大きな道を歩む者ではないと言われるでしょうか。私共キリスト者一人一人に「定められた道」はキリストが共におられる「大いなる道」(天国)です。私共には務めがあるのです。本教会は以前は「小さい人」が多く集う教会でした。「愛の共同体」でした。教会の一人一人が作る「愛の道」があったので、教会に入りやすく、歩みやすかったのです。今の本教会には「道」がありますか。教会は危機を迎えていないでしょうか。私は御言葉を通して、本教会の道を語りたく願っています。本日の御言葉は「主による鍛錬」です。「鍛錬」は(パイディア)で、「子」(パイス)の派生語であると以前に語りました。私共は「神の神性(キリストのようになる)」にあずかる目的で、主の鍛錬を受けるのです。私共の「義化」(罪が赦される)は神の恵みで、私共の功はありません。しかし「聖化」は己の努力と訓練が必要なのです。神は私共を「子」として扱っておられます。この鍛錬は忍耐が必要ですが、忍耐は(ヒュポモネー)で「希望」とも訳します。この忍耐は「義という平和に満ちた実を結ぶ」希望に繋がっているのです。天国の住人の幸いを失うことのない希望です。主の鍛錬という忍耐は罪から離れさせ、「聖なる生活」を送らせ、「小さい人」が通ることが出来る「愛の道」となるのです。教会に来て「神を見る人」が増えていくのです。私も又、先達の作られた道を行き、「愛の道(轍)」を作る一人にされたいと願います。共に参りましょう。