9月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
(テモテへの手紙一  2章1~8節)

「すべての人々が救われて」

本日は二つの御言葉を用意致しました。時間の関係で一テモテ書を中心に説き明かしを致します。何故、二つの御言葉を用意したかと言いますと、今、読み進めていますパウロ先生のテモテへの「奨励」の意味を具体的に知りたいからです。先生はテモテへの牧会への助言として、初めに、「祈り」を勧めます。キリスト者は、まず祈れと言われたのです。それも「すべての人々のために」祈りなさいと勧められました。その中にはキリスト者を迫害していた「時の権力者(敵)」たちも含まれています。本当に可能な事なのでしょうか。絵空事ではないでしょうか。何故パウロ先生が「すべての人々のため」と言われたのか。それは、主イエス・キリストが「すべての人(万民)」の贖いとして御自身を献げられたからです。神が「すべての人々」が救われて真理を知るようになることを望んでおられる(セレイン)からです。この「望む」(セレイン)は効果があるとは限らない願望を表す言葉です。(決定を示す「望む」は(ボウレスタイ)です。)何故「望む」(セレイン)なのでしょうか。神は愛です。神は強制、支配なく、人の応答を待たれているのです。人の自由意志を待たれているのです。神は「鷹揚な方」(マクロスミア)であり、徹底した愛の存在であることをパウロ先生は知り尽くしています。このことを主イエスの「たとえ」が具体的に語っています。本日の、もう一つの御言葉、「「不正な管理人」のたとえ」です。解釈の難解な御言葉の一つですが、パウロ先生が示された「祈り」に通じるものです。(1~8)は「たとえ」です。(9~13)は「適用」です。有名な「3つの喪失(アポリューミ)」の後の「3つの富(マモン)」の話です。この「たとえ」は弟子たちに語られていますが、ファリサイ派の人々や律法学者たちも聞いています。主イエスは御言葉を預かる「時の権力者たち」に「律法」(神の愛)に立ち帰るよう、求めているのです。「権力者」は「富(マモン)」を不正に使用します。これが現実の世界です。しかし神からの預かり物「富」を神の前に正しく用いるなら(4節)「家」(9節)「永遠の住まい」が用意されるのです。主イエスは「敵」にも祈りを捧げたのです。神への立ち帰りを求めたのです。「祈り」は具体のものです。「愛の行為」が伴うものです。「権力者」のために祈り、それでも御心に立ち帰らない時は指摘もするのです。(シュナイダー牧師)私共は「聖い手」を天に上げて、すべての人々の為に祈りを捧げましょう。