「聖 書」
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではないだろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことを果たしたなら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
(ルカによる福音書 17章5~10節)
「信仰があれば」
私共は何週間かに亘り、「信仰について」、「教会について」の御言葉に聴く礼拝に与っています。私共は御言葉に励ましを受けていますが、不信仰を思う時もあります。私共キリスト者の人生はどこを目指し、どこに向かうのか。私共が信仰の生涯を歩む上で、私共の目指す場所や目標を知ることは大切なことです。パウロ先生も「目標を目指して走ろう」(フィリピ3:14)と奨めています。本日の御言葉は、その私共の目指す場所と目標を語っています。本日も又、真理に与り、御言葉より励ましを受けたいと願います。本日の御言葉は「赦し、信仰、奉仕」です。有名な御言葉、「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と主が使徒たちに語られる場面です。主は弟子たちに向かって、「小さい者をつまずかせるな」「兄弟の罪を無限に赦せ」と言われました。使徒たちは、困難を覚える命令に応える自信がありませんでした。そこで使徒たちは、「私共の信仰を増してください」と願いました。その時の主の答えが「一粒ほどの信仰があれば」です。主は使徒たちに「信仰がない」と言われたのです。「信仰があれば」全ては可能なのだと言われているのです。(2013.10.6参照)私共は不信仰です。これは大きな「桑の木」です。しかし、どんなに小さい信仰(神への信頼)であっても「あれば」、不信仰という大きな桑の木は海に放り込まれ、根付き、海(サルサ)から出てくることはできません。また同じ言葉「からし種一粒」は(マタイ17:20)にも記されてあり、そこには「信仰があれば」、山を移すことが出来るとあります。「山」は聖所であり、神の臨在です。私共にからし種一粒ほどの「信仰があれば」、どこにおいても、どんな困難な時も「山」は移り、神は傍におられ、祈りを捧げることができ、礼拝を捧げ奉ることができるのです。主は、そのような神の栄光を拝する生涯を歩まれたのです。私共の目指す場所と目標は「神の国」です。主は「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)と言われました。私共は取るに足りない(アクレイオス:行き届かない)僕です。これは幸せな言葉です。私共は愛しても愛しても尚、足りないと思う「愛の関係の中にある者」です。これが信仰を与えられた者が得る世界です。私共は信仰を受けて、神を愛し、人を愛します。その場所に不可能はありません。神の御旨、神の計画に黙々と忠実に歩みゆく生涯であるからです。神は愛を実現します。私共はその神の愛を信じます。