10月9日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

(ルカによる福音書 17章11~19節)

「信仰があなたを救った」

本日の御言葉の説き明かしの基は以前語ったもの(2009.9・13)を参照して下さい。さて先週、私は「信仰があれば」全ては可能であると説き明かしを致しました。「無限に赦せ」もまた、信仰があれば「愛」に生き、愛する者であれば、無限に赦すことができるであろうと語ったのです。しかし敵に対しても、それは可能なのか。無限に赦す愛を私共は得ることなど本当にできるのか。私共は不信仰(信仰がない)ではないのか。本日の御言葉は私共の「その」信仰への不安に答えを与えてくれます。主の言葉に不安を覚えた使徒たち。使徒たちも又、主から「からし種一粒の信仰」の話を聞いても、真の理解を得たとは言えない状況でした。そのような弟子たちの不信仰の中であっても、主は弟子たちと共に「エルサレム(御受難)を目指して行く(ポウレオマイ=カーラク=神と共に歩む)」道を行かれます。キリスト者が受ける「信仰」とは何なのでしょうか。キリスト教が教える「救い」とは何なのでしょうか。(17:21)「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」の主の言葉は、敵であるファリサイ派の人に対しての答えでした。本日の御言葉に登場するサマリア人は現在も差別されている外国の者です。私共は本日の御言葉を通して、「現実」を突き付けられています。今もある「差別」「被差別」の関係、私共の現在の問題です。キリスト教は宗教ではありません。キリスト教は現実を生きる者の救いです。神は今も「有り続ける方」です。神が真実である以上、御言葉もまた真実なのです。本日の御言葉に戻りましょう。主はエルサレムへ上る途中で、重い皮膚病を患う十人に出迎えられます。主は彼らを「見ました」(エイドン)。主は彼らに言葉を与えました。「行きなさい」(ポウレオマイ:神と共に歩め)彼らは主の言葉に従いました。主の言葉に従った彼ら全員が癒されました。その中の一人であるサマリア人だけが、自分が、いやされたことを知って(見て・悟って:エイドン)、大声で神を賛美しながら主のところへ戻って来ました。イエスの足もとにひれ伏して感謝したのです。主は彼の信仰を見て、「行きなさい(ポウレオマイ)。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。彼は救いを得ました、彼はイエスに神の慈しみと神の姿を見ました。私は神から愛されている。私は神と共にある。これが救いです。彼は差別からも解放されました。その証拠は、主イエスの言葉にあります。