「聖 書」
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
(ルカによる福音書 18章1~8節)
「昼も夜も叫び求めて」
先週、私は、救われたサマリア人は「私共である」と申し上げました。主に出会い、信仰を得た彼は「大声で神を賛美しながら主のところに戻って」行くのです。主は彼に対して、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。この意味は単なる「いやし」を語るものではなく、「全人格的救い」を意味しています。私は被差別者であった彼自身が「差別」からも解放されたとも語りました。そして、その証拠は主イエスの言葉にあると申し上げたのです。差別は現実の只中にあり、私の内にあります。主イエスは、そのことをよく知っておられていたが故に、差別者であったファリサイ派の人々に「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われたのです。神の正義(律法)を守らず、差別をする者達に終末が訪れます。信仰の道を歩み出すサマリア人にも「厳しい現実」が待っています。しかし彼には「主の言葉」があるので、忍耐強く神を信じ、天国の住人の道を歩み続けます。神の正義を求め、人を赦し、人を愛する道を行きます。しかし「敵」は強大なのです。神と共に歩む道は厳しさがあるのです。主は「信仰の奥義」を弟子たちに語る事にしました。本日の御言葉です。主は「たとえ」を通して、「昼も夜も叫び求めて祈り続ける」大切さを教えました。神と共に歩まない者には祈りはありません。もし、祈りがあるとすれば、それは「自分の欲」です。ここで語られる「祈り」は、「神と共に歩む」時に起こる「叫び」です。主イエスの「激しい叫び声」(ヘブライ5:7)と同じものです。「たとえ」に登場する「やもめ」も又、神の正義を求める者です。(出エジプト22:21)しかし神の正義(律法)を守る者はいません。皆、自分の欲のことばかりです。神を真実に畏れる者が存在していないのです。(不正な裁判官=この世の現実)しかし主は祈り続けよと言われました。あなたの祈りは聞かれると言って下さったのです。証拠は御言葉です。「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」(ヨエル3:5)のです。現実が強大でも、「気を落とさず、絶えず祈り続ける」時に、神は「速やかに裁いてくださる」のです。この「裁き」は(エクディケオー)で「裁き守る」の意味です。直訳は「擁護する」です。神は私共が信仰の道を行くが故に起こる障壁を祈りを通して裁かれます。主は最後に、終末に信仰は見られるかと言われました。厳しい信仰の道は祈りなくしては行けません。