「聖 書」
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカによる福音書 18章9~14節)
「義とされて家に帰った」
本日の御言葉は、先週の続きです。「やもめと裁判官のたとえ」を語られた後、主は、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」と厳しい言葉を述べられました。その言葉を受けての本日のたとえです。本日の「たとえ」を私共が聴く時、「徴税人」の立場で聞く人が多いのではないでしょうか。しかし本日は「ファリサイ派の人」を自分に当てはめて聴くことが求められています。私共は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している者」です。私共の内には「差別する心」があります。私の小学校の時の思い出である「いじめ」と私の心の中にあった「差別」の話は以前に致しました。本日のたとえに登場するファリサイ派の人は、悪人ではありません。むしろ「聖人」と見られていた人です。(週報参照)彼は「心の中で」言ったのです。「神様、わたしはこの徴税人のような者でないことを感謝します。」彼は、自分を正しい人間だとうぬぼれています。「うぬぼれて」は(ペポイタ)で「自ら恃む」であることは以前にお語りしました。彼には「自分の義」はあっても「神の義」はありませんでした。それに対して徴税人は遠くに立ち、胸を打ちながら言います。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」「憐れんで」は(ヒラスコマイ)で、「贖う、ゆるす」の意味です。彼は「ゆるして(贖い)ください」と神様に叫んだのです。神は罪人の叫びを聴かれる方です。このことは詩篇51編(ダビデの詩)が証ししています。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(51:19)この詩は、「賛歌」です。その最後には「シオン(イスラエル共同体)」の祝福を祈る言葉で締めくくられています。これは詩篇26編「わたしの足はまっすぐな道に立っています。」にも繋がる思いです。「この罪人なるわたし」の自覚は聖霊の働きです。私共は裸のままが良いのです。裸のままの「罪人」の姿で神に立ち帰る時、神は喜んで下さいます。この証拠は本日の御言葉に記されています。「(彼は)義とされて家に帰った」「家」は(オイコス)で、ルカは「神の家」の意味を込めています。ルカは14章でも「3つの喪失」を語る中に「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と語り、「放蕩息子のたとえ」にて、悔い改めた弟は家(祝宴)に入り、兄は正しさゆえ家に入らなかったとあります。「家」は神から与えられる愛です。