10月30日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじくの木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

(ルカによる福音書 19章1~10節)

「救いがこの家を訪れた」

本日の御言葉はL資料からのルカ特有の記事です。これに似ている記事は、5章の「レビを弟子にする」です。その結びの言葉は「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」となっています。この記事は、共観福音書の全てに記されています。何故、ルカは似ている記事をここに入れたのでしょう。それは本日の御言葉の最後の主イエスの言葉がとても大切なものであったからだと考えます。その言葉は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたもの(アポリューミ)を捜して救うために来たのである。」本日の御言葉の大切な所は、「家の回復」であり、「神の愛の豊かさ」です。(2016.10.30、2019.11.3参照)先の徴税人(罪人)の救いは「個」を語っています。私共の信仰は神との個との関係です。これは先週の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」も同じことを語っています。しかし本日語られる御言葉は、私共に神から与えられる救いは、そこに止まるものではないことを語っているのです。「家」は(オイコス)であるということは、先週お語りしました。家から想像できるように、家は「共同体」であり「愛がある場所」です。神は愛です。神の救いは「家」を提供し、「家を回復」し、「家で愛を育み」、「家を創り上げる」のです。これは信仰の真理であり、事実です。ザアカイは、その「証し」を「十八番」として教会で語り聞かせてきたので、御言葉が残ったのです。彼は主に救われた時から「喜びに満たされた人生」でした。その「喜び」は「愛の共同体(家:天国)」の喜びなのです。彼は、救いを明確に語っていたのです。本日の御言葉は「コンチェントリック技法」が用いられています。初めと終わりの言葉が大切です。その言葉は「捜す」(ゼーテオー)です。ザアカイは、世的に見れば地位も財産もある成功者だったでしょう。しかし彼は体裁も構わずに、イエスを見たいと「捜す」ために木に登ったのです。彼は「魂」が渇いていたのです。彼は「その場所」で主に出会いました。定冠詞のつく「その場所」とは「彼の魂の渇いている場所」です。主は、「ぜひ(デイ:必要である)、あなたの家に泊まり(メノー:留まる)たい」と言われました。偶然ではなく、神の必然がありました。その証拠が最後の言葉、「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」です。神は彼よりも先に彼を捜しておられ、彼を見出し喜び、家を与えたのです。