11月20日(日)終末主日礼拝

「聖 書」

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

(ルカによる福音書  23章35~43節)

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

本日は「終末主日(収穫感謝日)」礼拝です。また併せて「召天者合同記念礼拝」を執り行います。午後からは教会墓地にて「墓前礼拝」「納骨式」を執り行います。関係の方々は乗り合わせの上、墓園の方にお越し下さい。さて懐かしいお顔が前に並んでおられます。ここ何週かに亘り、「全ての人は、神によって(永遠の命を)生きている」と申し上げて来ました。その命は神と共にある時、死を越えて永遠に存続する(生きている)とも申し上げました。その証拠は本日の主イエスの言葉です。「はっきり言っておくが、(アーメン)あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」この言葉に多くのキリスト者は励まされてきました。この主イエスの言葉は福音書の中で、ルカ書にのみ記された言葉です。二人の罪人の内、その一人に「信仰告白」をさせているのもルカ書のみです。この「良い罪人」は私共キリスト者の姿です。ルカ書を当時読んでいたキリスト者は、既に「神の恵みを生きている人たち」でした。ですから読者は「イエスの受難と死の物語」を悲劇と共に思い起こすのではなく、十字架の死と復活の中に「新しい永遠の命」があることを経験し、その中を歩んでいる恵みを知りつつ、本書を読んでいるのです。私達はどうでしょうか。私達は主の十字架を前に、どの立場で「見て」いるのでしょうか。本日の「良い罪人」のように、主の前に罪を告白し、主イエスを信頼し、主の懐に(やもめの献金のように)「自分を投げ入れて」いるでしょうか。若くして召された梅本秀樹君は病の苦しみの中にあって、梅本姉妹に「お母さん、先にお祈りをして!」と真実に神を信頼する少年でした。彼は早くに召されましたが、今も主と共に楽園にいて「神の永遠の安寧」を生きています。本日「別紙(楽園:パラディソス)」を御用意致しました。「楽園」が確実に「今」あることを知る為の資料です。「良い罪人」は「御国においでになる(エルコーマイ)時には」と語ったとなっています。これは写本の関係で、「御国に入る時」「御国から来る時」と解釈が分かれますが、これは「メシアの時」(カイロス:神の時)と解し、「良い罪人」が未来形を使っているのに対して、主イエスは現在形を用い、「楽園の今」を強調しました。主イエスが救いを完成させたこと。イエスは神であられたこと。その栄光を主は告げられたのです。「楽園:パラディソス」はエデンの回復ですが、終末の「天国」が今、ここにある真でもあります。