「聖 書」
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ、国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
(イザヤ書 60章1~6節)
「主の栄光はあなたの上に輝く」
「顕現(公現)日礼拝」を迎えました。本日までがクリスマスです。主の降誕は「既に」成された出来事です。ですから毎年クリスマスを祝う意味は、一年中を「クリスマスの心」を持ちながら過ごす為の記念の祝祭です。「クリスマスの心」とは先週にも語りましたように、「神に栄光を帰すこと」「主を畏れること」又、「皆共に、喜び歌うこと」です。この心を一年中に待ち続けるためには、御言葉に聴き、聖霊の恵みの中を歩み続ける他ありません。本日の御言葉の説教題は、「主の栄光はあなたの上に輝く」です。何度も、このところの御言葉は味わってまいりました。「年間標語」にしたこともあります。しかし、その内実を悟ることができていたかと問われると心許無い気がします。本日、まことに御言葉の内実を悟り、クリスマスの心を得たいと願います。御言葉は冒頭にて、「起きよ、光を放て」と命じます。この「光(オール)」は「キリストの光」であり、「主の栄光を現す光」です。紀元前538年に捕囚の民はイスラエルに帰還しました。70年の罪の結果の憂き目でした。故郷に帰ると廃墟でした。その廃墟を目にした同胞の民に預言者は語るのです。「起きよ、光を放て」これは「メシア預言」と言われます。この預言は500年後に成就します。主イエスの御降誕がその成就です。この預言により「東方の博士たちの礼拝」が(マタイ福音書2章)に記されています。どのようにして、私共は「光」を放つことができるのでしょうか。それは「主の栄光が私共の上に輝く」ときです。では、どの人に主の栄光は輝くのでしょうか。それは「小さい者」です。「幼子イエス」は、その小ささゆえに主の栄光が輝きました。また長じて「アッバ、父よ」と祈りを捧げる小ささのゆえに栄光を受けられたのです。このところの意はヨハネ書17章の「イエスの祈り」に詳細されています。その一部を抜粋すると「わたしは地上であなたの栄光を現しました。父よ、御前でわたしに栄光を与えてください。」です。私は以前、このところの意味を理解していませんでした。「栄光」を「栄誉」と誤解していたからです。「栄光」は(ドグサ)であり、「神の本質」を現します。神の本質は「愛」であり、「光」です。別紙の「活水」にて柘植先生が「キリストの名が崇められるところに我々も崇められる」と語っておられますが、私共が神に立ち帰り、神に栄光を帰す時に、私共の上に主の栄光が輝くのです。「起きよ、光を放て」