1月22日(日)聖日礼拝

「聖 書」

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

(コリントの信徒への手紙一 1章10~17節)

「福音を告げ知らせるために」

私共は「福音」を知る者です。また、その「福音を告げ知らせる者」でもあります。私共は、このことを常に深く自覚する者でありたいと願います。このことを自覚する者は感謝の内に、キリスト者の生涯を歩んで行くことができます。初代教会を言うに及ばず、現代の教会においても「教会」は、混乱と問題を常に孕んでいます。この原因は、キリストにとどまって(メノー)いないからです。福音にとどまっていないからです。言葉を変えるならば、自分を誇る「人間中心的集団」が起こってくるからです。本日の御言葉のコリントの教会はパウロ先生が立ち上げたものです。パウロ先生がここを発つときに、同労者アポロを後任に据えました。コリントの教会が3~4年を経過したころ、色々な問題が起こってきました。コリントの信徒であるクロエがパウロ先生に、そのことを伝えました。その問題の一つは「分争」でした。「私は~派(グループ)だ」と争いが起こっていたのです。「~派」とは何でしょう。これは「自分を誇る」行動です。「パウロ派」「アポロ派」「ペトロ派」「キリスト派」これは、どれも正しいことを語っているようで、的を外した行動です。「自由主義」「教養主義」「律法主義」「聖霊主義」と置き換えても答えは同じです。「主義」「~派」である以上、自分自身なのです。私共は「主を誇る者」です。パウロ先生は、分争にあるコリントの人々に「勧告」の手紙を送りました。その冒頭の「挨拶」の中で、彼らを「神の教会」「聖なる者とされた人々」と呼ばれました。パウロ先生は教会に問題があろうとも、「教会」は神の恵みが注がれている「神の教会」だと先に伝えたのです。先生は「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と本日の御言葉の最後で述べられています。誰から洗礼を受けたことが大切なことではなく、「福音が大切」なのだと勧告されたのです。私共には「キリストのみ」が大切なのです。本日配布しました「記念の石」(阪神宣教祈祷会50年史)は高橋文蔵牧師の足跡も記されています。この会の暗黙の会是は「ボスをつくらない」です。キリストがボス(かしら)なのです。この会是の御蔭で会は今日まで命脈を保ちました。今は、「キリスト教一致祈祷週間」です。私共は改めて「福音の恵み」に立ち帰り、喜びを共にし、心を一つにして祈りを合わせましょう。世界の平和も、この福音の祈りの中にあります。