「聖 書」
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
(ローマの信徒への手紙 5章12~15節)
「一人の人の恵みの賜物」
「罪」の反対語は何でしょう。一般的には対義語は存在しないと言われています。「功罪」の語があるので、「功」かもしれないと思われる方もあるかもしれませんが、「罪」の範囲はもっと広いとされているので、「功」でないそうです。このことは聖書の中で「律法」を自らの「功」(いさおし)で罪を清算しようとする律法学者の「偽善」(ヒュポクリテース)を指摘された主の霊的洞察の深さを思い起こします。日本人だけではなく、人間は、誰もが自らの「罪」と向き合うことが苦手なのです。にも拘わらずに、四旬節に入ってしまいました。「四旬節(受難節)」(レント)は「回心と悔い改め」を為す期間です。しかし自分の「罪」に向き合うことができない者に、神の恵みや十字架の贖いの尊さに感謝を捧げることなど、到底できるはずはありません。「回心と悔い改め」に至れないのです。しかし私共は「罪」に向き合う必要が「全ての者」にあります。本日のパウロ先生の御言葉は、見事に、そのことを突いています。先週に「キリスト者の成長」について語りました。「幼な子」ではないキリスト者は、「霊的食物」を戴くことができ、いつも「平安」を生きることができると述べました。この「平安」は神との安らぎであり、神との和解、神の赦しを得た者の「魂」(心)の状のことです。私共は「罪」と向き合うことが大切です。私共が「神の神殿」である以上、「自分を欺くことはできません」。パウロ先生は「歴史」を三段階に分けました。アダムからモーセまで「罪に懲罰」モーセからイエスまで「律法違反に懲罰」イエスから今まで「福音を受け入れる者が救いに」です。私共は「罪」に背を向けていても、誰しもが「罪の清算」をするのです。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)主イエスの「荒野の40日」を自らが経験するならば、自分の罪を自覚することになるでしょう。自分は何と誘惑に負ける者かと。また先週、「バックストン勉強会」で「聖潔」の話(イザヤ1:18)になり、「罪の自覚」の大切さが語られました。牧師は基本、真面目です。ですから罪の自覚が希薄です。しかし死刑囚との面談の経験が語り合われ、誰しもが罪から逃れられないことを知る機会となりました。本日の御言葉は語ります。「神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれる」神の赦しの贈物は、どんな罪過も無罪にし、神と和解させ、永遠の命に至らせる。主の従順が為した業です。