「聖 書」
肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、〝霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
(ローマの信徒への手紙 8章8~11節)
「義によって命となる」
四旬節の半ばを過ぎました。メノラーの蝋燭の炎が小さくなってきました。「主の過越」が迫って参ります。いよいよ次週には「受難週」に入ります。蠟燭の炎は主イエスの命です。主は私共の「罪の告白」を受け入れ、その身に罪を担って下さっています。私共に「赦し」を与えるためです。先週、私は「真の回心と悔い改め」を為しましょうと申し上げました。「真の回心」は私共に内なる「変革」を与え、「光の子」として歩み始める者とされると説き明かしを致しました。そのことを別の言葉で語るならば本日の御言葉である「義によって命となる」ということです。本日のローマ書はパウロ先生の長大な説教です。キリスト教の組織神学であり教理書です。書簡集の中で「最高峰」のものでしょう。そこには何が記されているのか。福音の力が記されています。私共の罪の現実と、そこから解放される為の信仰による救い「信仰義認」が記されています。その最後には私共の信仰生涯に対する適用が記されて結ばれています。キリスト教が語る「救い」は「全人格的救い」と言われます。「全き癒し」のことです。私共は、まず自分が「罪人」であることを知る必要があります。私共の人生は順風なものでも逆風のものでも常に悩みは尽きないものです。困難や問題は日常的なものです。私共の全ての人は「悩みの人」なのです。パウロ先生は、その事実を「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」(7:24)と語っています。そして続けて「だれがわたしを救ってくれるでしょう。」とも語り、霊の命の救いを提示しました。私共の「悩みの原因」が「罪」であり、霊の命の喪失であることを告げたのです。本日の御言葉が語る如く、私共は肉の人でした。しかし今は霊の人となっています。しかし主に悔い改めを為しても又、罪を犯す者です。私共は「惨めな人間」なのでしょうか。そうではありません。10節に「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、〝霊„は義によって命となっています。」と語る御言葉は真実です。私達は未だ「死ぬ体」を持っています。しかし救いは、その「あなたの体のまま」を用いて「復活の体」として下さるのです。神は愛です。週報に記された「放蕩息子の帰還」では父が「義の衣」(創世記3:14)を着せ「晴れ着」(ゼカリヤ3:4)となりました。子の復活です。私共の「変革」は神の愛の業です。(12:2)私共は愛の人に変革されます。