「聖 書」
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
(コロサイの信徒への手紙 3章1~4節)
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に」
皆様、イースターおめでとうございます。主は死を打ち破り「復活」されました。主イエスを信じる我々もまた、キリストと共に神の力により復活させられています。(1節)本日は、この「復活の神秘」について、御言葉に聴きましょう。皆様は今、喜びで包まれています。今年のレントは言葉の意味どおりに「春の光」に包まれていました。受難週早天祈祷会では、光に包まれる中で「イザヤ書53章」を読み味わい、祈りを捧げ合いました。家族の救い、友人、知人の救い、隣人の救い、自分の救い、日本、世界の救い、私の知らない人の救い、教会への支え、そして、私の敵の為に祈り、その魂の救いを祈りました。この「祈り」は、「神の力」がなくては決して適わないものです。復活の出来事は本当に起こりました。その証拠は聖書に記されています。「復活」は「神の力」です。私共の魂の「変革」の「源」です。イエスの弟子たちは十字架の死を前にして、裏切り、否認し、逃亡しました。ユダヤ人たちは、待望していたメシア(キリスト)を自らの手で葬りました。主イエスは、その全人類の「罪」を担い切り、「贖いの死」を成し遂げられました。復活の主に出会い、聖霊の賜物を戴いた弟子たちは「変革」しました。死を恐れず、宣教に邁進しました。この事実をどのように説明したら良いのでしょうか。私達は、この目で見、復活の主を今、触ることができたならば、「信仰」を得るのでしょうか。それは、そうではありません。復活を疑っていたトマスは主イエスを見たから信じたのではありません。物理的な出来事の確認ではなく、イエスの傷に触れ、自分の罪を顧み、「贖い主」である主を信じたが故に、「わたしの主、わたしの神よ」と叫んだのです。復活を科学で確認できても信仰は得ません。まして、「魂の変革」(新しい人=罪の贖い)は起こり得ません。私共は「復活信仰」を信じなければなりません。(4節)「キリストが現われるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」これは再臨の時に、私共は復活の体(白い衣=晴れ着)を着ることが語られていますが、それだけではありません。週報の挿絵にあるマグダラのマリアは、復活の主に会いました。その景色は「光」で包まれています。マリアの心の中は希望の「光」の中にいます。私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されています。復活信仰は私共を「希望の光」にて満たし、愛にて満たすのです。