4月23日(日)聖日礼拝

「聖 書」

また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものはによらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

(ペトロの手紙 一 1章17~21節)

「栄光をお与えになった神」

先週に「新生」の御言葉であるトマスの復活信仰、信仰体験を聴きました。トマスは十字架から問われ、復活の主に出会うことを通して、救いを賜りました。本日はペトロの信仰告白を通して、更に「栄光の十字架」を仰ぎたいと願います。ペトロは、「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちに」本日の手紙を書きました。この人たちは「異邦人」でした。神は異邦人を選ばれ、アブラハムの家族とされました。彼らは、アブラハムやイスラエルと同じく「仮住まい」の者でした。彼らはイエスをキリストと告白することにより「迫害」を受けています。ペテロは彼らを励ます為に本書を書きました。聖ペトロも同じく迫害を受けています。この迫害に意味があるのでしょうか。ペトロは語ります。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明されます。」(1:7)これは、どのような意味なのでしょうか。このことは本日の御言葉が、聖ペトロの「復活信仰」の理解として答えています。ペトロは主の死を前にして、失望の中にいたのに、何故「再起」できたのか?本日の御言葉が語る「栄光」とは何か?本日のペトロの語るキリスト者の「立つ場所」を知る時、私共に与えられる信仰の豊かさに感謝を捧げることでしょう。十字架の死は「栄光」です。このことは主自らが証しをされています。「人の子が栄光を受ける時が来た。」(ヨハネ12:23)この意味は、「苦難の僕の死(メシア)」の預言を自らに受けて、神(御言葉)への従順を成就し、十字架の死を「贖い」として完成させる時を主が受け入れたことを意味しています。十字架の死は「御心の完成」であるので栄光なのです。私共の前にも「私の十字架」が示されています。私共は、それに従う「弟子」でしょうか。私は長尾牧師の「御言葉になりたい」に感銘しました。また、長尾牧師は吉田牧師のことも教えて下さいました。吉田師の説教集「おじゃまします」の中で語られる、牧師として、信仰者として、常に主に問われ続けていること。その問い(試練)が自分を本物の信仰者にすることを自らの証しとして、御言葉の取り次ぎをしておられます。私共は世にあって多くの問題から自らを問われます。信仰者ならば信仰が問われます。ペトロは迫害下にあっても「聖なる者」として生きなさいと言われました。この力は、復活の主に出会ったときの「愛」への確信です。私共も又、神の愛に信頼する時、栄光の約束を持ちます。