「聖 書」
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにはかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
(ヨハネによる福音書 10章1~10節)
「命を豊かに受ける」
本日は礼拝後に「聖霊聖会」が開かれます。皆様どうぞ全ての方、お残り下さい。全ての方が、豊かな聖霊の満たしを受けられますように、祝福を先取りして祈ります。さて本日の御言葉は「イエスは良い羊飼い」の箇所です。例年、復活節第四主日に読まれます。先週には「イエスとペトロ」の御言葉を通して、復活の主との出会いがペトロを「新生(再生)」させた御言葉に聴きました。ペトロは、主の「わたしの羊を飼え」に愛と赦しの御旨を受け取りました。主の羊とは私共「信仰者」のことです。また神の言葉に聴き従う「神の民」のすべてを語る比喩です。ペトロは「主の羊」の自覚と羊が受ける「豊かな命」の意味を知る者でした。そうであるので、ペトロは「羊飼い」として遣わされたのです。しかし本日の御言葉は、主御自身が「羊飼い」であり、「羊の門」であると言われています。このことは今、主イエスが「羊の大牧者」と呼ばれる所以でもあります。主は今も「羊飼い」であり、召命を受け、派遣される「羊飼い(牧師・神父・伝道者)」の「大牧者」でもあるのです。ペトロは主が羊飼いであり続けて下さったことにより、最期まで主の道を歩み抜き、走り抜くことができたのです。ここに「聖書と典礼」に記された証しがあります。東京カトリック神学院院長の稲川圭三神父の「召命の証し」です。(朗読)稲川神父は、文の結びに「呼びかけを受けている人は、必ず神学校に来て下さい。」とされました。御自分は二度も呼びかけを断っているのにです。神父は「召命」の意味と神の愛を受け入れたのです。神に委ねたのです。これが「羊の門」を通る意味です。羊は羊飼いを信頼し、「羊の門」を通るのです。その門を出入りする場所に常に「羊飼い」がいて、「安心・安全」「豊かな食べ物」「愛」があることを知っているからです。私共は主イエスが「良い羊飼い」であることを知っているので「週報の写真」のように、主に従い、ついて行くのです。従い、ついて行く先には「命を豊かに受ける」場所があるのです。私は「聖霊聖会」で「かっこ悪い」話をします。私は牧師として相応しくない者です。しかしただ「恵み」ゆえに、ここに立っています。「恵みとは「そうではない」と言うのに「そうだ」と言って下さる事」とホーリネスでは言い慣わしてきました。宗教指導者は話が分からなかった。自分の真に依拠していたからです。私共は主にのみ従い、命を豊かに受けましょう。