「聖 書」
この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの石」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
(ペトロの手紙一 2章4~9節)
「生きた石として用いられ」
「(愛する皆さん)この主のもとに来なさい。」ペトロ先生の声が、聞こえてきそうです。「この主」とは、私共に「主は恵み深いお方」だということを味わせて下さっている「主イエス・キリスト」のことです。ペトロ先生は、迫害の只中にある「選ばれた人たち」に、主にあるゆえの迫害の中にあるからこそ「主のもとに来なさい」と奨めます。聖ペトロも又、迫害の中で、常に主と共に歩んだのです。そして「聖なる者」の務めを果し、「生きた石」となりました。1章7節に「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明される」とあります。ペトロ先生の経験です。「本物の信仰」とは何か。主イエスの喜びに溢れ、「魂の救い」を手にしている信仰です。(「聖霊聖会」にて語られた「溢れ出す喜び」です。)では「生きた石」とは何か。それは本日語られる「隅の親石」(アクロゴーニアイオス)であるイエス・キリストを表わす「生きた石」のことであり、私共のことです。この「生きた石」は「礎石」(土台)です。教会の命の「本質」です。5節に「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」とあります。私共を「生きた石」として用いられるのは神です。「生きた石」として語る聖ペトロの気持ちを汲み取りましょう。「隅の親石」は神の国の「礎」です。私共も神の国を支える「生きた石」です。石は普通は話しません。しかし、神への賛美が止められるならば、「石は叫ぶ」(ルカ19:40)のです。私共は、静かに教会を支え続けます。自分を聖なる「霊的な家」(神の宮)として、神に造り上げて頂きます。しかし迫害を受けるならば「石は叫ぶ」のです。神への賛美(ゴスペル)は止まないのです。同じルカ書19章に、「やがて時が来て、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。」と主の警告の言葉が記されています。この「石」は「己が当てにするものの全て」でしょう。私共は「当てにするもの」を見誤ることがあってはなりません。私共の命のすべては「主」です。本日の週報の「写真」を御覧下さい。牧師先生方です。牧師先生は例外なく苦しみを受けておられます。しかし聖なる者の顔の輝きを主から戴いています。私共は人から捨てられる経験をするかもしれません。しかし主は私共に栄光を与え、用いられるのです。「王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」として用いて下さいます。そして、どのような時も喜びに溢れ、隣人に遣わされていく者となります。