6月4日(日)三位一体聖日礼拝

「聖 書」
主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。」

モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

主は言われた。「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。」

(出エジプト記 34章1~10節)

「主、主、憐み深く恵みに富む神」

「三位一体主日」に感謝を捧げます。聖霊降臨節に入り、教会歴の中では、長い季節を迎えます。基本の典礼色の色は緑です。「永遠」を表しています。私共はキリスト者として永遠(天国)を歩んでいます。本日の御言葉は「愛」である「三位一体の神」を現しています。私共の主日礼拝は、その全ては本質的に「三位一体の神の記念(アナムネーシス)」です。私共は三位一体の神の「永遠の愛の交わり」の中に招かれ、その中(天国)に入り、永遠の命の中を歩みながら、神に賛美を捧げつつ喜びを生きているのです。(週報参照)神は「罪」を犯したイスラエルの民に「戒めの『再』授与」を致しました。神が愛である証です。イスラエルの民は「罪」を犯しました。「背き」と「罪」と「過ち」です。神は怒られ、「わたしは民と共に行かない」と宣言します。しかしモーセが執り成しを為し、神は思いを翻させられるのです。本日の御言葉が、その事実と意味について語っています。モーセはシナイ山にて、「十戒」を神から賜ります。(20章)そしてイスラエルの民は、神と契約を締結します。(24章)にも関わらずに、「戒めを記した石の板」を持ち帰るモーセを待つ間に、「金の子牛」(32章)を造り、偶像礼拝を捧げてしまい、モーセと神の怒りを買ったのです。彼らの「罪」は「背き」(ペシャ)です。契約を破る「信頼を裏切る」(パラプトマ)行為です。また「過ち」(アヴォン)「咎」です。真の神を己の思い通りにしようとする「歪んだ行為」である「金の子牛」です。人は過ち(咎)を犯し、その罪の報いを負います。この「罪」は(ハマルティア)でもあります。その意味は「的外れ」です。人は「神の像」に創造されました。にも拘わらずに、人は神から離れ、目的地(目標)を見失い、「失敗する」人生を選びます。それ故に神は十戒を与えられました。神を愛し、人を愛する者が天国を生きるのメッセージです。イスラエルは、「愛すること」を失敗したのです。完全に律法を全うできたのは主イエスのみです。彼は人でありながら「愛すること」に失敗がありませんでした。本日の御言葉のモーセは、その主イエスの「型」(トュポス)です。本日の御言葉は語ります。唯一なる神は、罪を赦す「恵みに富む神」、過ち(咎)を赦す「咎を負う主(イザヤ53:4-5)」、背きを赦す「聖めを与える主」である「父、子、聖霊」であると。モーセは命を賭して、執り成しを捧げました。神は今も私共の「罪」の執り成しの為に「愛の祈り」を捧げ続けています。