6月11日(日)聖日礼拝

「聖 書」
今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを得ることができる。

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山から銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。

(申命記 8章1~10節)

「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」

「申命記」はモーセ五書の最後に位置し、その後に続く「歴史」「預言」の「歴史書の序論」となっています。この意味は重大です。聖書の「歴史」は「神の御旨」そのものだからです。旧約と新約の関係で言うと、申命記と使徒言行録は同じ位置にあります。「福音」の4書が先にあり、最後には次世代の橋渡しをする「過渡的文書」です。「申命記」(デウテロノミオン)は「第二の律法」=「律法の写し」(17:18)ですが、単なる律法の反復が記されていません。モーセが40年の「荒野の生活」を回顧し、一世代巡り、荒野で成長した新しい世代に対して、カナンへ入る前に、律法を反復し、説明をする必要に迫られて「神の御旨」を伝える書として位置しているのが本書だからです。「申命記」は「新しい世代へ」「新しい所有地へ」「新しい生活へ」「放浪から定住へ」「新しい霊的経験へ」「神の新しい啓示へ」と橋渡しをする「過渡的文書」です。これは「使徒言行録」も同じ意味合いを持つものであることは理解されるでしょう。私達「教会時代」を生きている者にとっても、本日の御言葉は大切な意味を持っています。次世代の「継承」に何を伝え、何を残していくのかを知ることが出来る御言葉だからです。それと共に、これから起こる「神の計画」が確実であることを知ることが出来る御言葉です。私共の教会も「歴史」を刻んできました。しかし歴史が終わったわけではありません。「神の約束」は必ず実現するのです。神は私に「つぶさない」と言われました。「神の愛」が示されました。私共は、ただ待つのみです。「主の戒めを守り、主の道を歩み、神を畏れる」生涯を歩みつつ、「ただ待つ」のです。「三位一体の神」は「ただひとり(エハード)」の神であり、私共に「真実」を示される唯一の方です。「申命記」の中心は「神は真実」であり、「神は愛」であることを初めて記した書でもあります。私共「神の民」にも苦難は訪れます。神が私共を「神の子」として扱っておられる証拠です。(ヘブライ12:4~13)しかし神は「慰め主」でもあります。(二コリント1:3)私共は苦難の時こそ、「神を信頼する」のです。それが祝福の道です。苦難の時こそ、「主に祈る」のです。神は「必ず祈りを聞きます」。本日の未来を予見した申命記の通りに、その後に続く「神の民の歴史」は「神の言葉」を選び、従うか否かの選択が道を決める証しとなっています。私共は「神の賜る良い土地」を「既に得たり」と信じて、歩んで行きます。