8月20日(日)聖日礼拝

「聖 書」

では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。

神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐みを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐みによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐みを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

(ローマの信徒への手紙 11章13~15節、29~32節)

説 教 「ねたみを起こさせ」

皆様の家の台風の被害はなかったでしょうか。被害に遭われた方々の早急の回復をお祈り致します。さて本日の御言葉には「残りの者」思想が反映されています。「残りの者」とは列王記上19章18節に記された「わたしはイスラエルに七千人を残す」から始まる「まことの礼拝者」のことを指し示しています。この思想は、エリヤから始まり、アモス、イザヤ、エゼキエル、ゼカリヤ、ゼパニヤ、…パウロへと引き継がれてきました。これは「残りの者」だけを救うという意味ではありません。「残りの者」は自分の義を立てずに、神を義とする信仰者のことです。只々神の恩寵にて生きている者です。エリヤは、神が共におられること、未来に希望があることに慰めを受け、立ち上がることができました。それと共に、「神と共なる者」は一人ではない、「残りの者」もいるという慰めを受けたのです。この思想はパウロにまで引き継がれ、「神の壮大な神秘の救いの計画」という深遠な悟りを与えたのです。週報に(イザヤ49:6)を掲載しました。そこには「主の僕の使命」が記されています。主語は「私」です。これは「主の僕」の全てを表わす主語です。パウロは自分を「残りの者」と認識し、「主の僕」として見立てました。彼は預言の成就として「異邦人伝道」に遣わされたのです。そこで救われた異邦人も又、「主の僕」です。ですからキリスト者の全ては「残りの者」であり、「主の僕」であり、「国々の光」、「神の救いをもたらす者」です。そこにはメシアニックジューと異邦人キリスト者の違いはありません。聖書が語る「残りの者」は「まことの礼拝者」を勇気づけ、励ます存在です。ですから全てのキリスト者は「本物の信仰者」を目指して生きる者でなくてはなりません。では「本物の信仰者」とは何か。それは「偽物の信仰者」に「ねたみ」を起こさせる者です。「偽物の信仰」とは悪口ではありません。未だ、本物の信仰を得ていないという意味です。これは「本物の信仰者」が「残りの者」に希望を与えるというメッセージです。「本物の信仰者」は己に義がないことを知る者です。「あんな者が」と言われる者です。「そのような小さな者」が恩寵にて救われたことを知る者です。不従順な者は私共を「ねたみ」ます。見下していた者に「神の光」を見るからです。全ての者は不従順です。救いは恩寵でしかありえません。「ねたみを起こさせ」とは「奮起させる」ことです。「恩寵」に感謝します。