「聖 書」
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
(ローマの信徒への手紙 13章8~10節)
説 教 「互いに愛し合うこと」
私共キリスト者は主に贖われた者として、主の「御国建設」(御旨)の為に、「行け」と命じられる「派遣者」です。その生涯は先週の御言葉であった「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げる」ということです。これは私共の力で「為し能わざること」です。この生涯は完全に主に委ね、自分に死ぬという意味であるからです。「自分に死ぬ」ことは「神が生きる」ことです。そこには素晴らしい平安と喜びが待っています。絶望は希望に変えられます。絶望していた自分はいなくなり、希望を与えられる主の中に入るからです。私共は「神の愛」の中に生きることが出来ます。しかし、「少し待ってください」と言われる方もおられるでしょう。私共はマザーではありません。只の人です。世の厳しい現実を生き、今もなお罪を犯す罪人なのです。これは多くのキリスト者が告白する正直な思いであることを私も知っています。しかし本当に「只の人」であるキリスト者が変わるのです。「喜びの人」に変えられるのです。(12:2)私共は罪人のそのままで変えられるのです。神に喜ばれ、完全な生涯を歩むことができるのです。本日の御言葉を御覧下さい。「隣人愛の勧告」です。パウロ先生は11章で「キリスト教原理」を語り終え、12章から「キリスト者の実際の行動」について勧告をしています。それもキリストの愛に根差した「キリスト者の行動」を思い起こさせているのです。私達には「愛」はありません。律法を全うする力はありません。にも拘わらずに、パウロ先生は「隣人愛」を勧めます。御言葉の真意を知りましょう。先生は「互いに愛し合うこと」は「借り」(オフェイロー)(負い目・義務)であると言っているのです。それも仲間だけでなく「他の人」を含む「愛する」です。「他の人」には「思いの異なる人」や「敵」も勿論入ります。この意味を聖書学者のヨハンは私共が「永遠の負債」を持つ者であるからであると語ります。私共は如何に人を愛しても、その愛は「無限の負債」を償うのに不十分であるの意味です。その「永遠の負債」を負う私共の罪を主は十字架の死にて、罪を「帳消し」にして下さいました。このことを信じる者は「赦しの喜び」に満たされるのです。神の愛を告げ広める側に変わるのです。キリストの「愛は律法を全うする」ものでした。ですから、その愛を生きる者は人を愛し、律法を全うし、神の愛を生きるのです。互いに愛し合う力に満たされた生涯です。