「聖 書」
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたがたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
(マタイによる福音書 18章21~35節)
説 教 「赦しなさい」
本日の「説教」は先週の続きです「互いに愛し合うこと」このことは主の「掟」(ヨハネ15:12)であり、「義務」(借り:オフェイロー)です。しかし、私共がこのことを務めようとすればするほど、自分の限界を思い知ります。私共には「愛の力」が必要なのです。本日は、このことをまことに知るために「赦しなさい」の御言葉を解き明かします。本日の御言葉は18章の結びとなっています。18章には「教会(天の国)の姿(本質)」が語られています。ですから「結び」もまた「教会の本質」のことです。では「教会」とは何でしょうか。それは、「愛の交わり(精神共同体=キリストの体)」のことです。その視点から、本日の御言葉を味わうならば、その意味を理解することが出来るでしょう。主は「赦しを七回まですれば良いですか」と問うペトロに対して、「七の七十倍までも赦しなさい」と答えられました。この事は「無限に赦せ」という意味です。これは十字架の「贖罪」を語る言葉です。ペトロが語る「七回赦す」は自分の頑張りや自分の我慢(犠牲)が語られています。しかし主が語られる「赦し」は「自分の命を得る」話が語られているのです。16章において、ペトロの信仰告白が語られました。主は「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。その後、主は「死と復活の予告」を弟子たちにされました。主を窘めたペトロを叱責された話は以前にしました。その26節に「自分の命を失ったら、何の得があろうか」と主は語られています。主の十字架の死は、「すべての者に命を得させる」道なのです。主は「すべての者」に天国(永遠の命)を得させるために「自分を捨てる(神に生きる)」のです。本日の御言葉に戻ります。主君は何故、「永遠の負債」(ヨハン)を帳消しにしたのでしょうか。負債を返済できない場合は「牢」(ヒュラケー)に入れることになるからです。「牢」は終末の「関係の断絶」を表しています。主君は家来との関係を切りたくなかったのです。この意味は「十字架の贖い」を意味しています。しかし、家来は仲間(シュンデュロス=共に僕)を赦さず、「牢」に入れ、関係を断絶したのです。家来は主君が関係を回復してくれたからこそ、「仲間」とも一緒におられたのです。それを忘れて、仲間の関係を断つ者は天国の住人になることはできません。「赦すこと」は「仲間を得ること」「愛を得ること」「命を得ること」「教会(天国)を得ること」なのです。「赦し」は天国の基です。