12月31日(日)聖日礼拝

「聖 書」
 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。…

信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。…

(ヘブライ人への手紙 11章1~19節)

説 教 「約束をなさった方」

本日は「歳晩主日礼拝」です。午後には2023年を締めくくる「聖霊聖会」も持たれます。私共は、この一年を神がどれほどの恵みをもって守り導いて下さったかを思い、まず感謝を捧げましょう。(祈り)さて一年を締めくくる本日の御言葉のテーマは「信仰」です。このことが本書に書かれた目的は、ユダヤ教から改宗したユダヤ人の中に、キリストへの信仰に迷いが生じた者が出てきたことに対して、信仰に堅く立つことを勧めるためであったと解釈されています。このことは当時の彼らの問題だけではなく、現代の私たちの問題とも同じです。本日の御言葉は「信仰論」ではなく、キリスト者の「命」そのものの話です。本日の御言葉には「信仰によって」という言葉が10回出て来ます。最後まで読むならば、もっと多く書かれています。では本日の主人公は誰でしょうか。信仰者でしょうか。勿論そうではありません。神が主人公です。本日の御言葉にはアブラハムのことが多く書かれていますが、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれますが、すべてが模範であったわけではありません。11節以降の話もサラの女奴隷のハガルがイシュマエルを産む出来事も含まれた信仰生涯です。その彼が「信仰の父」と呼ばれるのは、彼が神を「約束なさった方は真実な方であると、信じていた者」であったからです。つまり信仰は、「約束なさった方は真実である」という信仰告白が基です。「約束なさった方は真実である」という部分が不確かならば、信仰は成り立たないのです。アブラハム自身が立派な信仰を持つ前に、神御自身が常に先立ち、「真実」(いのち)を現され続けたのです。このことはヨハネ書が記す「初めに言があった」という告白と同じものです。信仰は、神からの「召し」(顕現)があり、持つことが許される精神の営みなのです。私共は、「信仰によって」、この世界が「神の言葉」によって創造され、見えるものは目に見えているものからできたのではないことを知ります。私共の存在の意味も知るのです。私共の罪ある死の命は、主を信じる信仰によって贖われ、新しい命、永遠の命に入りました。私共は永遠の世界から与えられている、数々の恵みを数えましょう。そして、この一年の全てを感謝し、全ての栄光を神に帰して、一年を締め括りましょう。そして新年もまた、「主と共に」信仰の生涯を歩んで参りましょう。主は希望、平和、喜び、愛に満ちる一年に必ずして下さいます。私共に最良を与えられる神の約束を信じましょう。