3月10日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

(ヨハネによる福音書  3章14~21節)

説 教 「その行いが神に導かれてなされたと」

先週の御言葉は「宮きよめ」でした。私共は「神の宮」です。(一コリント3:17)私共が「神の宮」であるならば、「きよめ」がなくてはなりません。汚れが残っているならば「火で焼かれ」ます。これは目に見えない「霊的な火」のことです。本日の御言葉は、その「宮きよめ」の続きの話です。主イエスのところへ、議員のニコデモが訪ねて来て、主イエスの内にある「永遠の命」の源の秘密について尋ねます。主は的確な答えを教えますが、彼は悟ることができません。「自我」という罪が、彼の目を曇らせているのです。彼の宮には神ではなく、「自我」(罪)があるのです。主は答えを続け、「そして」と答えの中心に入られました。「十字架の贖い」です。「モーセが荒れ野で蛇を上げた(ヒュパオ)たように、人の子(イエス)も上げられねば(ヒュパオ)ならない。」これは民数記21章「青銅の蛇」の故事ですが、「しるし物語」でもあります。荒野での旅路の苦しみを民は神に逆らって、文句を言います。すると神は、民に「炎の蛇」を送り、民を咬ませ、死に至らせました。民は恐れをなして、モーセに罪の告白を為し、蛇を取り除いてくれるように懇願します。神は、モーセに救いの手立てを与えます。「青銅の蛇」です。もし、また民が炎の蛇に咬まれても「旗竿」の「青銅の蛇」を見上げれば、「命を得ます」。この「しるし」は、「十字架」の予型です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛して」下さいました。私共は、己が罪を悔い改め、「十字架を見上げる」ことで「(永遠の)命を得ます」。私共が己が罪を認めて、罪を悔い、神に立ち帰ることができたからです。しかし、この恩寵は、主の贖いがあったゆえです。本日の御言葉の最後の句で、「その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」とあります。「その行い」は、「真理を行う」ことであり、「光(主イエス)の方に来る」ということです。主イエスの十字架が「真理を行う」ことでした。「真理を行う」とは、神の愛を生きること、己が十字架(杯)を負うこと、神の御旨を為すことの意です。主イエスを信じない者は「既に裁かれてい」ます。己が罪に沈み、闇の中を苦しみの中を歩んでいるからです。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」この「好んだ」は(アガパオー)で、執着です。しかし主を信じる私共は、十字架の救いにより、変革されます。その変革は明るみとされ、証しとなります。全ては導きであり、神の恩寵です。