「聖 書」
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。
(ルカによる福音書 24章35~48節)
説 教 「これらのことの証人となる」
(24:48)「あなたがたはこれらのことの証人となる」キリスト者は「証人となる」と主は言われました。何の証人でしょうか。主は「これらのこと」と言われました。では「これらのこと」とは何か。本日は、そのことの意味について御言葉に聴きます。今、私共は復活節の中を歩んでいます。復活の主に生かされる信仰とは如何なることかを知る期間です。本日の御言葉は復活の「身体性」(週報参照)について語っています。(2015.4.19)39節「触って」(プセーッラフアオー)は「復活証言」を表す言葉です。また「復活」は聖書預言通りであることを主は語られました。そして、その「御言葉」は「心の目を開く」ことを通して悟ることができるものであることを示されました。弟子たちは心の目が開かれました。福音を理解しました。彼らは、復活の主に出会い、目で見、触れ、心で悟り、今までの出来事が「福音」であることを理解したのです。では「福音」とは何か。福音とは「罪の赦しを得させる悔い改め」(回心と救い)の喜びのことです。ルカは福音を神学的に語らずに、「個の体験」として語ります。福音を体験した者は、福音が恵みである事を知っています。私共の師であるバックストン先生は、「信仰は努力で保つのでない。恵みが信仰を保つのである」と教えられました。私共に与えられた信仰は、「恵み」です。私共は「恵み」を証しするのです。自分を語るのではなく、「神の愛の業」を語る事が「証し」です。私は先週の礼拝において、皆さんがここに座っていることは「奇跡」ですと申し上げました。神の「奇跡」が皆さんを救いました。ですから福音は「恩寵」です。恩寵を悟り、体験する者は神に「喜び」「感謝」を捧げます。神の言葉に聴く心が与えられます。使命が与えられます。証し人の人生が始まるのです。先週、同じ日にメールを頂きました。ゴスペル参加者の辞退のメールです。聖霊聖会で、私が語った「習い事でしている人は違う処に行って下さい。私共は本物を目指します。」につまずいたのです。私はキリストの証人です。使命を違えるわけにはいきません。ゴスペルスマイルは「おっちゃん」に歌って欲しくて作ったグループです。「おっちゃん」は習い事には来ません。そこに「本物の愛」がなくては来られないのです。私が言う「本物」は愛です。喜びです。福音(ゴスペル)です。スマイルはなくなりません。愛は滅びません。「これらのこと」とは滅びることのない「神の愛がここにある」喜びのことです。私共はその福音の証人です。