「聖 書」
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということは知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
(ヨハネの手紙 一 3章1~2節)
説 教 「御子に似た者となる」
先週に、ゴスペル・スマイルの今後について話し合いました。再出発ですが、目的は何も変わらないことを確かめました。本教会のゴスペルグループは、今後も「本物」を目指していくということです。(2:19)では、「本物」とは何でしょう。そこに「キリストがおられる」ことです。キリストは全ての人のところに来ておられます。全ての場所におられます。その真実にクリスチャンとノンクリスチャンの違いはありません。違いがあるとすれば、自分のところに来て下さっているキリストを受け入れたか否かの違いです。しかし、このことは大きな違いをもたらせます。ゴスペルを心から喜び歌い、感謝の賛美と礼拝を捧げることができているか否かの違いとなって表われます。私は全ての人に本物を目指して頂きたいと願います。この意味は、その人の人生の一大事がかかっているということです。本日の御言葉を御覧下さい。2節の後半に、「御子が現れるとき、御子に似た者となることを知っています。」とあり、その理由が、「なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」と、使徒ヨハネは語っています。私共は毎日、復活の主に出会っています。その証拠は「神の子」の人生が始まっていることです。キリストを信じた時から、私共の人生は変革(新生)しています。「御子に似た者」に向かう人生が開始されているのです。では「御子に似た者」とは何か。それは神の愛を知り、神を知り、神の御旨(愛)を生きる者のことです。週報の挿絵を御覧下さい。嵐の中で沈みそうになる弟子たち(兄弟たち)を愛するあまり、命を捨てて、救出に向かう主イエスの姿が描かれています。(復活節第四主日は(ヨハネ10:14-15)「わたしは良い羊飼いである。わたしは羊のために命を捨てる。」が読まれます。)私共は今既に「神の子」です。私共は神に知られ、私共も神を知っています。御子に知られ、御子を知っています。私共は変革します。私共の進む道が「神の愛」「十字架を負う」「宣教」「兄弟愛」へと向きます。厳しい道でありながら「証し」(マルトゥス)の人生となります。「喜び」の人生に変貌するのです。私共は遂に「御子に似た者」となります。「主の日」に復活の主の栄光の体と「同じ姿」になるのです。(フィリピ3:21)世は私たちのことを「知りません」。父なる神のことを「知らない」からです。私たちが先に召されたのは「証し人」になるためです。私たちには神の愛を知らない人々に「神の愛を届ける」使命と責任があります。私共は愛を生きましょう。