「聖 書」
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
(ヨハネの手紙 一 4章7~10節)
説 教 「ここに、神の愛が」
私共キリスト者とされた者にも「世の戦い」や「世の惑わし」があり、罪と向き合う「内なる戦い」もあります。初代教会の人々も又、同じ戦いを経験しました。4章の小見出しには「偽りの霊と真実の霊」とあります。今昔を問わず、いつの時代も同じなのです。晩年の使徒ヨハネは、初代教会の人々に「悪の世に打ち勝つ信仰」を伝えました。それが本日の御言葉、「神は愛である」です。本日の御言葉は「愛の賛歌」と呼ばれます。ヨハネの手紙の中心のメッセージです。私共は本日の御言葉の真実に触れ、キリスト者の命を生きる幸いを確かめ合いましょう。ここに、尊敬される先輩牧師の先生が、突然、病に倒れられました。重病であったために、牧師の働きを失い、家庭の幸福や将来の希望を失いました。そんな時に友人が訪ねられて、御言葉をプレゼントしました。詩篇119編68節でした。そこには、「あなたは善なる方、すべてを善とする方(善のみを行われます)」とありました。牧師先生は力を得ました。神は「愛のみ」「善のみ」の方であることを信じる信仰を回復したのです。その後、先生は奇跡的に病が癒され、その後も尊い牧師の働きを続けることができました。先生は晩年に言われました。「神は本当に、常に変わらずに「愛」であり、「善」であり続けられたお方であった。」と。私共は「まことの幸い」「まことの命」「まことの愛」を得る為に、主イエスに留まる必要があります。9節に「ここに、神の愛が示されました」とあります。原語は(ファネロー)で、(私共が主イエスに留まり、「生きる」ことにより、(神によって)神の愛が明らかにされ続ける)の意味に解されます。一度きりの人生は「何が幸い」なのでしょうか。私は主から仕事をするなと言われました。自分の「能力」に頼るなと言うことです。人々の人生の内を見よとの意です。「誠実」な生き方でさえ、自分の真面目さを誇ることでもあるでしょう。では、まことの「誠実」(ピスティス)とは何か。それは今、神から与えられている全てを感謝し、神に感謝をしながら、神に与えられた人生を楽しく幸いに生きることです。神の愛に生き、兄弟を愛し、宣教し、礼拝者の命を生きることです。「互いに愛し合いなさい」を生きることです。私共は復活の主に日々出会い、励まされ(週報挿絵)、「キリストの愛を知る」幸いを日々生きましょう。(エフェソ3:14-18)そのことを通して、私共の人生は「愛に根差し、愛にしっかり立つ者」として、神の豊かさに満たされます。