「聖 書」
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エフェソの信徒への手紙 4章1~13節)
説 教 「招きにふさわしく歩み」
本日は「主の昇天日礼拝」です。いよいよ、次週は「ペンテコステ」です。主は弟子たちに「昇天」の姿を弟子たちに見せられました。それは、何故でしょうか。この「昇天」の姿は、私共の「携挙」の姿を表しているものでもあります。私共は一瞬で「復活の体」に変えられ、天に昇り、主と空中で、相まみえるのです。本日の週報の挿絵を御覧下さい。御昇天する主を迎える天使たちの姿が描かれています。私共は懐かしい家族と再会を致します。皆が天使のような姿です。本日の挿絵は「主の昇天」を見上げる弟子たちの姿を描くものではありません。私共に「主の昇天」に現わされた「神の栄光」を垣間見せる絵画です。私共もまた「主の栄光」の中に入っていく者です。この事実は何という喜び、何という感謝なことでしょうか。主は、世に残る弟子たちに「神の栄光」を見せられました。このことは、未来への希望でもありますが、今を生きる私共に、「主と一つとなる」希望を与えられたことでもあります。パウロ先生は私共に勧めます。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」この意味は、続く御言葉の通りですが、別の言い方をするならば、「主の御思い」を知り、「御旨を生きなさい」の意とも言い換えられます。私共の主は「三位一体」にて「一つ」の唯一の神である以上、私共も神の愛の内に「一つ」です。私共は「神の愛の内に」招きにふさわしく歩むのです。そのことは具体的には如何なることかは、次節に記されています。(4:7)「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」私共には主からキリスト者としての「使命」と「責任」が与えられています。このことは大変重いことでありますが、「恵み」です。この「恵み」は「霊的賜物」です。この恵みを先生は(詩編68:19)「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」を引用し、私共への恵みの成就を示されました。私共には天からの「賜物」が与えられるのです。この目的は、世が神の愛で満たされるためです。私共がキリストの持っておられた「喜びで満たされる」ためです。「招きにふさわしく歩む」先にあることは、(4:12-13)「こうして、聖なる者たちは、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」然り!