「聖 書」
兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。…
進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。…あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
「多く集めた者も、余ることはなく、…」
(コリントの信徒への手紙 二 8章1~15節)
説 教 「進んで行う気持」
本日は「聖霊聖会」が午後にもたれます。今から楽しみですが、私は本日の会にて「魂の喜びを手にする方法」について語りますと予告しておりました。先週と今週の御言葉は、その「魂の喜び」を悟るための大切なものであり、その「悟り」がなくては何を手にしたら良いのかが分からず、曖昧なものとなってしまいます。「魂の喜び」は外から眺めていても決して分かるものでなく、主体的な内側から溢れ出す体験です。本日の御言葉を、もう一度御覧下さい。パウロ先生の「献金の勧め」です。これは単なる献金の徴収を語るものではありません。「献金」とは何かを語り、信仰の革新を求める「勧告」となっています。コリントの教会の人々は、困窮の中にあるエルサレム教会に献金をする計画でしたが、現状は滞っていました。理由は分かりません。パウロ先生は、その現状を聞きつけ、「勧告」しました。献金は無理強いのものではなく、「恵み」であると告げたのです。その証拠に、先生は献金の言葉の箇所を「献金」と書かずに、「神の恵み」「交わりの恵み」「この恵みのわざ」「絶大な神の恵み」「このこと」と記しました。献金は恵みなのです。週報の挿絵を御覧下さい。「やもめの献金」です。神は「隠れたところで」、祈り、献げる者の心の中を見ておられます。神であられる主は、この献金を見て、「この人は、だれよりもたくさん入れた」と言われました。献金とは何かを示されました。献金は「自分を献げること」なのです。この献身も又、自己中心のものであるならば、勿論、何の意味もありません。バックストン先生は「すべてを捨てて」、日本に「献身」されました。主イエスの受肉の「貧しさ」を生きられたのです。「極みの愛の故」です。私共が得る「魂の喜び」は、神に、兄弟姉妹に、共同体に、隣人に「自分を献げる」人生へと招きます。主イエスの愛の喜びが、そうさせるのです。ですから献金をすることができることは喜びなのです。兄弟姉妹を助け、聖徒たちを助けることができるからです。私共は欧米の教会の人々から「献身の愛」を受けて参りました。今度は、私共が「お返し」をする番です。私共がキリストの救いに与り、「魂の喜びに満たされ」、献身し、お返しができたならば、「釣り合い」がとれます。世界がキリストの愛で満たされます。私共は世界をキリストの愛で満たしましょう。愛が成る為に、私の全てを献げましょう。私共が本物の喜びに満たされる時、日本に、世界にリバイバルが起こります。御旨です。