8月25日(日)聖日礼拝

「聖書」

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです

(エフェソの信徒への手紙5章21~32節)

説 教 「聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」

本日の御言葉は、孔子の儒家思想「論語」を語るものではありません。道徳や倫理ではないのです。では本日の御言葉が語ることは何か。それは愛です。エフェソの教会は「愛から離れる者」が出てきました。このことは、教会が教会でなくなるということです。現代は「愛」が失われた時代と言われます。あらゆることに「自己責任」という言葉が使われます。この意味は、自分の責任は自分で取ってくださいということです。裏を返せば、誰も自分の世話をしてくれる人はいないという意味です。世は本当にそうなのでしょうか。「教会」はキリストが立てられました。「愛の共同体」と呼ばれます。教会は「エデンの園の回復」です。パウロ先生は獄中にあって、エフェソの人々に「教会」を想起させました。教会は「キリストに従う者の共同体」である。教会には「教会の使命」がある。教会の使命は「愛と平和」「救いと喜び」、そして「霊の満たし」「世の光」である。教会は聖霊の働きであって、愛と力に満ちている。その具体の神の力によって、私共には「互いに愛し合う」力が与えられる。自分は一人ではない。神と人が自分を「世話してくれる」という安心の経験が与えられる。この経験は信仰を得なければ、決して得ることができない世界です。パウロ先生は具体の身の回りの現実から「教会」を想起させました。「妻と夫」「子と親」「奴隷と主人」初めに「小さい者」に声が掛けられています。「小さい者」にキリストに従うように、家の者に従う(ユポタッソー:仕える)ように促しておられます。その「仕え」は、何かを得るための「報償」であはありません。「愛の応答」です。その証拠に、続く夫、親、主人には「愛を与える」ように勧告しています。先生は愛を語り、「キリストと教会」を語っておられるのです。では「愛を与える」とは如何なることでしょう。それは「養う」(エクトゥレフェイ:食を提供する)「いたわる」(サルペイ:手厚く世話する)です。これは、キリストが教会に「自分を与える」行為と同じです。私共には愛がありません。私共は自己中心です。私共は世的で欠けだらけの神の栄光を表すことができない者です。ですから私共の力で教会を本物にすることはできません。只々、神の力(神秘)が必要なのです。神の愛の力が必要です。先生は、愛の共同体となりなさい、霊の力に依り頼み「一つ:一体」となりなさいと勧告しました。その愛の世界に「聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」が立ち上がります。