「聖 書」
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
(ヤコブの手紙 2章1~5節)
説 教 「世の貧しい人をあえて選んで、信仰に富ませ、」
ヤコブ書の主題は二つあります。一つは「行いによって表される信仰」です。これは先週に、お語りしました。そして、もう一つは「人を分け隔てしない信仰」です。本日の御言葉です。この二つの主題は、どちらもが「神の御心」を悟ることなしに、御言葉の真意を知ることはできません。御言葉に聴き、御言葉を受け入れることを通してでしか悟ることができない世界なのです。この世界を真に知る者は「天国の住人」とされています。さて本日の御言葉には「差別する」という言葉が出てきます。これは現代的主張の基本的人権として採る意味の言葉ではありません。(差別をしないなら天国に入れるという意味ではない。)この「差別」は(ディアクリノー)で、「自分の誤った判断で裁く」の意味です。ですから「区別する」とも訳せます。神は、人々を救う対象を「区別」(差別)をなさいませんでした。「この私が救われたのです。」(罪人、小さい者、貧しい、弱い、面目を失う等:週報)神は世の貧しい人たちをあえて選んで(エクレゴーマイ)、信仰に富ませ、天の国を受け継ぐ者として下さいました。この神の取り扱いは「全ての人を愛に招く」為です。星野氏の詩文を用意しました。星野氏の「正しい信仰観」です。「強いものが集ったよりも弱いものが集った方が真実に近いような気がする」このことは先週にもお語りしたことです。教会は「本物の教会」を目指します。目指すとは誤解が生じるかもしれません。教会は神が「本物の教会」として立て上げる。これが真実でしょう。しかしこれは「強制」ではありません。神と人々との「自由意志」に基づくものです。ですから、つまずく人も出て来るのです。私共は、どのような応答をしましょうか。神に祈るならば、必ず祈りを聞き、応答して下さいます。私共は神の声を聴き、応答します。聞かぬふりをして、「自分の心を欺く者」となってはいけません。では神の言葉(御言葉)を受け入れるとは?それは「自分が罪人(小さい者)である」ことを受け入れることです。「小さい者に仕え、愛に生きよ」の言葉に従うことです。神は私共を「信仰に富ませ」て下さいました。これは「自らが低くされる者」の意です。この「小ささ」に天国はあるのです。神は全ての人を愛されています。誰に対しても分け隔てをしてはなりません。私は教会生活50年を越え、信仰の先達を想います。本物のキリスト者は「小さい人」でした。だから今も私の希望です。私共は神の御心である「愛の共同体」を共に歩んで参りましょう。