「聖 書」
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る者もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
(ヤコブの手紙 2章14~18節)
説 教 「自分の信仰を見せましょう」
本日の御言葉は最後に「自分の信仰を見せましょう」と語っています。信仰を見せるとは如何なることなのでしょう。それもヤコブは「わたしは行いによって」と語っています。本日の御言葉の小見出しには「行いを欠く信仰は死んだもの」とまで記されています。これはどう切り取っても「行為義認」を語っているように見えます。ルターが「信仰義認」を再発見し、ヤコブ書を「藁の書」(行為義認の否定)と呼んだことも頷けるところです。しかし、先週にもお語りしたように、このところは「行為義認」を語っているのではありません。パウロ先生の語る「行い」は、救いを得る為の自らの「行い」(努力)を語っています。その「行い」は真の信仰を得ることも真の救いを得ることを得させない。救いと信仰は、唯々「恩寵」の御業であると先生は語ったのです。ヤコブの語る「行い」は真の信仰を得た者から生まれる「実」のことです。「信仰の実」です。パウロとヤコブは、信仰の「行い」を違う意味で用いたのです。では、ヤコブの語る「行い」(実)とは何でしょうか。ヤコブの語る真意を汲み取るならば、この「信仰の行い」が無くては、真の救いを得ていないことになります。このところは、心して読まなくてはなりません。ヤコブの語る「行い」は、真の信仰から生まれる「喜びと救い」であり、「喜びとイエスの愛」のことです。一つのエピソードを紹介します。「ジムの証し」(全文読む)ジムは見すぼらしい姿をした老紳士です。ジムは毎日昼の十二時に教会に祈りに行っています。短い祈りです。いつもジムは主に、「イエス様、ジムでございます」と言って、しばらく主と話をする。ただこれだけでした。ある時、ジムは事故に遭い入院しました。そこの病院は不機嫌な患者が多く、陰鬱な雰囲気であったが、ジムが入院してから良い変化をもたらせた。病室が明るくなったのだ。原因はジムがいつも「幸せ」な姿で皆に接するので、皆が明るくなったからだった。看護師がジムに何故いつも幸せそうなかと尋ねた。すると彼は、毎日の訪問者の御蔭だと言った。しかし訪問者は誰もいなかった。再度、ジムに尋ねると、彼は顔を輝かせて、こう言った。「毎日、十二時になると、その方が来てくださいます。そして、私を優しく見つめ、「ジム、イエスだよ」と言って下さるのです。」まことの信仰は、主が共にいて下さることを教えます。そして「平安、喜び、感謝」を与えます。この信仰が私共を聖化させ、信仰の行いの実を結ばせるのです。