10月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

ただ、「天使たちよりも、わずかな間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。

(ヘブライ人への手紙 2章9~11節)

説 教 「すべて一つの源から出ている」

本日は「召天者合同記念礼拝」です。午後からは「墓前礼拝」を執り行います。前に並べられてある「お写真」の方々は信仰の先達であり、聖徒(聖なる者)の方々です。彼らは教会に集いました。そして本教会を「本物の教会」として下さった方々でもあります。では「本物の教会」とは何でしょうか。「本物」の教会には二つの特徴があります。教会に集う者たちが「神を見上げる者」(週報)「小さい者」であるということ。そして、互いに「小さい者」を受け入れる者であり、互いを祈ることができる愛の存する場所であるということです。教会は「救い」のある場所であり、救われた者が「聖なる者」とされ、天国の住人とされるところです。もう一度、聖徒たちの写真を見て下さい。彼らは自らの「小ささ」を知っていました。謙遜な人々でした。そして、その小ささの中で、あなたを愛したのです。あなたの痛みに心を寄せ、神に執成しの祈りを捧げてくれていました。私共は良い「遺産」を戴きました。私共が決して失くしてはならない「愛の場所」のことです。愛を戴いたものは、愛を守り、愛を伝え、愛を残していく責任があります。その大切な愛に気づき、愛に生きたいと願う者は、キリストのもとに行きます。キリストが「救いの創始者」であり、私共を「聖なる者」として下さる唯一の神であられるからです。私共は神の静かな声を聴くべきであります。お写真の方々の人生を思い起こし、彼らが願われた世界が実現していくように、日々を誠実に生きていく者でありたいと願います。今年は有志の方々と久しぶりに「御殿場研修会」に参加してきたことを御報告致しました。私は何十年ぶりです。集っていた皆さんは私と同様に、年を重ね、姿は変わっていましたが、その「有り様」(本物の教会の姿)は何も変わってはいませんでした。私は安心しました。本物の教会の姿を守られているのは、「神の臨在」です。そこに神がおられるか否かです。私共の教会にも「神の臨在」を願います。その為には、私共が「本物のクリスチャン」で、居続けなくてはなりません。キリストが神であるにもかかわらず、「低い者」(欠けのある者)とされたのは、全ての者の「弱さ」を担う為の「神の極みの愛」のゆえであり、数々の苦しみを通られたのは、私共の「罪の贖い」の為でした。「神の御旨」を完全に生きられた主は全ての人を救うことができる「完全な者」とされました。主の姿こそ「教会の姿」です。教会は「キリストの体」です。私共を支え続け、見守る愛は、「すべて一つの源から出てい」ます。私共は今、立ち帰りましょう。