10月13日(日)聖日礼拝

「聖 書」

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

(ヘブライ人への手紙 4章12~13節)

説 教 「自分のことを申し述べねばなりません」

本日の「御言葉」は厳しく聞こえる言葉です。私もそう思います。そう思う方は健全な良心をお持ちです。本日の御言葉は最後の句にて、「神に対して、自分のことを申し述べねばなりません。」と語り、結んでいます。私共は、神に対し、何を申し述べるのでしょうか。そのことを思い巡らし、祈りながら、御言葉に対峙していただければと願います。さて、私共は御言葉に対して、どのような態度で対峙しているでしょうか。私共の信じる神は、全知全能の全ての全ての方です。被造物の全てを知り尽くしておられる方です。私共は「神を神とする」神を正しく畏れる信仰をもって、神に向き合っているでしょうか。エピソードとしてお聞きください。クリスチャン作家であった三浦綾子さんが彼女の著作である「聖書に見る人間の罪―暗黒に光を求めて」の「まえがき」にて語った証しです。三浦さんは結核療養所にて療養していました。そこにH青年が同じ療養者として入院してきました。その青年は三木清(哲学)を読んでいるほどの文学青年でした。その数ある彼の蔵書の中に、一冊だけ、純白のガーゼにて包まれた分厚い本がありました。それは「聖書」でした。まだクリスチャンでなかった三浦さんでしたが、その事実を知った時、「私は何か戦慄に似たものを感じた」と告白しています。大事にしている三木清の本でもなく「聖書」だけを純白で包んでいる、H青年の「特別なもの(聖さ)」を大切にしている彼の心(厳かさ)を感じ取ったのです。私共はどうでしょうか。厳かな心で御言葉を受け入れているでしょうか。本日の御言葉は「神の言葉は生きており、力を発揮し」と書かれています。これは事実です。しかし、御言葉が力を本当に発揮するのは、私共が「御言葉を信じて、受け入れる」ときです。信仰が大切です。本日の御言葉は1~4章の一つの単元の結びとなっています。4章には「神の安息」が記されます。不信仰な者は「神の安息」を得ないと書かれています。神は全ての者に「安息」を与える為に、御子を遣わされました。「神の御業」です。(4:10)に「神の安息にあずかった者は、…自分の業を休んだからです。」とあります。私共は自分を救いに入れ、「安息」に入るためには、「自分の業」は休み、「神の業」に身を委ねる必要があります。主イエスの十字架の贖いを信じ、御言葉に聴く人生を歩むのです。私共は常に神の前に「自分のことを申し述べ」ねばなりません。私共は罪人です。不信仰です。私共は御言葉を前に、ありのままで立ちます。神が救います。私共は「私は救われました」と告白致します。