10月20日(日)聖日礼拝

「聖 書」

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありあせんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために。大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

(ヘブライ人への手紙  4章14~16節)

説 教 「大胆に恵みの座に近づく」

本日はイスラエルから「礼拝式」を執り行う予定でした。現在、イスラエルは、戦時下で予断を許しません。どうぞ世界に「まことの平和」が訪れるように、共に祈りを合わせましょう。(祈り)丁度といえば良いのでしょうか。御言葉はヘブライ書の「要約」の箇所です。この続きには週報に記されたメルキゼデクのことが記されています。メルキゼデクは創世記にて登場する信仰の父であるアブラハムに祝福の油を注いだ「サレムの王」です。メルキゼデクは「義の王」「平和の王」と言われます。聖書の民は、この聖書箇所から「エルサレム」の領有権を主張します。つまりアブラハムの子孫であるアラブ人もイスラエル人も権利を有する自覚があるということです。しかし、このことは戦いを正当化するものでは勿論ありません。メルキゼデクはキリスト教側からは「キリストの型」と呼ばれます。キリスト御自身の「顕現」であったと解釈する神学者もいます。何れの解釈でもメルキゼデクが聖書の登場人物の重要人物であることは理解できます。ですからヘブライ書はキリストをメルキゼデクと重ね合わせ、「永遠の祭司」と呼ぶのです。この「平和の王」に祝福されたアブラハムは霊の祝福を受けたのです。それゆえ、神に献げる「十分の一」の捧げ物を祭司であるメルキゼデクに捧げたのです。「神の祝福」を受けたという意味です。神はエルサレムを「平和の町」(永遠の都)とされました。聖書の民は、正しく神を畏れなくてはなりません。主イエスの「忍耐」(ヒュポモネー:下に留まる)は被造物の全てを救います。先週、私共は「御言葉の前に立つ者」であることを学びました。(4:13)「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが、神の目には裸であり、さらけ出されて」います。私共は、神を「正しく畏れる」べきです。全てのものは「神の前に立ち」、自分のことを申し述べねばならないからです。救い主である主イエスは、弱い者である私共を同情(スームパテオー)し、憐みを持たれるお方です。私共は、アブラハムがメルキゼデクの前に跪き、彼から祝福を受けたように、私共も、大祭司である主イエスの前に跪き、「大胆に恵みの座に近づこう」ではありませんか。この「恵みの座」は主から油注ぎの祝福を受け「聖さ」を受けた者が、行ける場所です。その場所は「至聖所」であり、「神の国」「エデンの園」「神の在すところ」です。「永遠の祭司」である主イエスは、私共の「弱さの全て」を担って下さいました。私共は主を信頼し、時宜にかなった助けを戴くために、大胆に、恵みの神の御前に近づきましょう。