2月2日(日)聖日礼拝

「聖 書」

見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。

彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。

そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は遠い昔の日々に過ぎ去った年月にそうであったように、主にとって好ましいものとなる。

(マラキ書  3章1~4節)

説 教 「突如、聖所に来られる」

2月に入りました。1月は教会標語である「霊の祝福を生きよう」の解き明かしを致しました。一年間の目標ですから、2月に入っても関連付けながら「霊の祝福」の解き明かしは続けてまいります。本日はマラキ書が読まれました。旧約聖書の最後の預言です。マラキ書は、ダニエル書9章の「70週」と関連して語られることがあります。「70週」は「7週と62週と1週」として語られています。「1週」は「艱難期」です。「7週」はマラキの活躍した「危機の時」です。「62週」は「キリスト到来」を待つ「暗黒時代」(祭司の時代)です。預言者が現れなかった時代です。因みに1節の「使者」は(マルアーキー)で、「マラキ」を表すと採り、著者問題にも触れることになります。ここは私共、クリスチャンを含む(召された者)として解釈して適用して良い箇所です。「7週」の「危機」は何を語るかと言いますと、「神を正しく畏れない危機」です。イスラエルは、捕囚から解放され、神殿を建て直し、再興を果たしました。この後に「救いの時」が来ると信じて労したのです。総督ネヘミヤのもと心は燃やされています。しかし自分の願いが聞かれない時に、熱情は失望に変わりました。「危機の時代」です。イスラエルの人々は貧しいままの現状を打破すべく、「現世主義」「形式主義」に走りました。神を畏れる生活を失いました。そこに旧約最後の預言者マラキが「最後の叫び」を挙げたのです。祭司や民たちは神に立ち帰ることはありませんでした。その後、預言者が現れない400年を過ごすことになります。マラキ書は「神とマラキ」と「祭司と民たち」の信仰問答形式になっています。「神は愛しています」→「どのように」。「神殿を軽んじている」→「どのように」。「妻を裏切った」→「どうして」。「正義の神はどこか?」→「裁きの使者を送る」。この「裁き」は(ミシュパート)で「正義」のことです。マラキは、メシア預言を語ります。私共はマラキの預言が正しかったことを知っています。私共はクリスチャンとして時を経る中で、「神を正しく畏れない者」となってはいないでしょうか。ここで一人の牧師の証しを、お読みいたします。(別紙参照)主を信じ、祈りの交わりの生活に入る者に、「突如、(主は)聖所(宮:魂)に来られる」のです。「聖め」のゆえです。聖霊は「精錬する者の火」です。魂が汚れたままでは、主の臨在に耐えることはできません。私共は「御声を聴く」ときに背を向け「言い訳」をしてはなりません。主は、あなたを「主にとって好ましい者」にしようとしておられるのです。霊の祝福を共に生きましょう。