「聖 書」
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱい広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
すると、セラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪を赦された。」
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くのだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
(イザヤ書 6章1~8節)
説 教 「聖なる万軍の主」
「霊の祝福を生きよう」の神秘と深みに入ります。本日の御言葉は「イザヤの召命」と言われる、よく知られている箇所です。しかし皆さんは不思議に思いませんか。他の預言書は「召命物語」は初めの章に記されています。イザヤ書は(1~5章)において既に預言活動をしているのです。イザヤは預言者として、罪赦される悔い改めを知っている者であったので、ユダの人々に悔い改めを迫ることができたのです。では、「イザヤの召命」は何を語るものなのでしょうか。一言で語るならば「潔め」(ホーリネス)です。「心の潔め」(聖化)です。神は、あなたとの日々の交わりの中で、「あなたの耳を開いて」、御声を聞かせたいと願っておられます。しかし私共は罪赦され、救われてなお、「汚れ」の中に住む者です。神は「聖」なる方ですから、「汚れ」があると神を見ることも聞くことも適いません。では、どうしたらよいのでしょうか。それは神が備えて下さる炭火で燃やされることです。この火は「聖霊の火」であり、「潔めの火」です。神殿には多くの人が祈りを捧げに来たことでしょう。しかし「聖なる万軍の主」を見た者は、神の声を直接聞いた者は、イザヤ一人だけでした。どこに違いがあったのでしょうか。それは「小ささ」であり、「謙遜」であったと思います。イザヤが見た天使はセラフィムです。セラフィムは「燃える者」と言われます。「神を愛する愛に燃える者」です。そのセラフィムが六つの翼のうち二つの翼で顔を覆っています。「自分を隠す」(自分に死んでいる)の意味です。自分はなく(自己中心に死に)、ただただ「神の栄光」を讃えるのです。イザヤは神殿で祈りました。神を見上げました。ただただ無心で神を見上げました。すると、天国にいたのです。天の御座の主を見たのです。彼は罪赦されていた者でしたが、天国基準ではありませんでした。彼は「罪と汚れ」を知りました。「認罪」です。真の「悔い改め」です。彼は「聖め」(聖霊の火)に与りました。彼の咎は取り去られ、奥深い「罪は赦され」ました。「聖化」です。「そのとき」(潔さに与った時)、直接に「主の御声を聞く」ことができました。イザヤは新しい力に満たされました。神が彼を新たに招かれました。「誰を遣わそう」。イザヤが応えます。「わたしがここにおります」。畏怖を覚える「聖」です。しかしここにおられる神は「愛の救い主なる神イエス」です。主は、あなたにも「火」を送られます。「潔め」「新しい喜び」「新しい力」「神の栄光を讃える生涯」「天国」を与える為です。神を喜び、神の栄光の為に生涯を献げる人生が待っています。