2月16日(日)聖日礼拝

「聖 書」

主はこう言われる。

呪われよ。

人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地。炎暑の荒れ野を住まいとする。

祝福されよ。

主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。

(エレミヤ書 17章5~8節)

説 教 「主がその人のよりどころとなられる」

(礼拝前祈祷:イスラエルの平和、世界の平和、人々の安寧を祈る。イスラエルより)

エレミヤはエルサレムから北へ5㎞ほど離れた寒村アナトトで祭司の子として生を受けました。若き日に彼は召命を受けました。彼が聞いた主の言葉です。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」この招きの言葉は「召命」を受けた者だけが聞く御言葉ではありません。真の唯一の神である「主に信頼する者」の全ての人に向けて語られている言葉です。神は今もあなたに語りかけ、あなたを遣わしたいと願っておられます。エレミヤは預言者として立ちました。4章において「立ち帰れ、イスラエルよ」と彼は、エルサレムの人に叫びます。「あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに、わたしの怒りは火のように発して燃え広がり、消す者はないであろう。」彼らの罪は「不信仰」と「偶像礼拝」でした。彼らは、主の言葉を信頼しませんでした。エレミヤの時代の危機は、窮めて「現代」の危機と同じです。結果として、彼らは神に立ち帰らず、国が滅び、捕囚の民となりました。エレミヤは涙を流しました。この涙は同胞を愛するがゆえの痛みの涙です。彼は民を愛するがゆえの「神の痛み」を知る者でした。と共に同胞を滅びから救いたい、しかし立ち帰らず裁きに遭う「同胞への痛み」をも持つ者でした。彼は必死で預言します。しかし、主の働き人である彼が受けた報いは、「失望させられ、感謝されず、無視され、誤解され、迫害され、命まで狙われる」という体験でした。そのような体験の直後に彼は、本日の御言葉を預言するのです。神を信頼せずに、「人間を頼り、肉(自己)を頼みとする者」は、その行く末は「枯れる(魂の死)」人生となる。「主に信頼する人」は、困難の時も枯れることなく、「実を結ぶ(永遠の命)」人生が保証される。我々も同じです。「死海」のところに「エンゲディ」というオアシスの町があります。ダビデがサウル王の手を逃れて身を隠した場所です。ここに「ダビデの滝」があります。この荒れ野に届く「源泉」はエルサレムにあります。私共が主に信頼し続けるとき、私共の足元には汲めども尽きない「命の泉」があり続けます。信仰者とされても困難はあります。しかし私共は「実を結ぶことをやめない」命を神が守り続けます。どんな時も「命の水」を与え続けられるのです。神から選ばれ、招かれた私共に主は「祝福されよ」と言われます。霊の祝福を受けましょう。