8月10日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「…小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

…主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

(ルカによる福音書 12章32~48節)

説 教 「父は神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい」

先週に私は「神の国を生きる」ことが大切であるということ語りました。本日は、その具体的な生活を語るものです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。」ここに記される「小さな群れ」(ポオイムニオン=羊の群れ)は私達のことです。私たちは羊の群れですから、「恐れ」を持つほどの弱い存在です。ですから、世にあって「思い煩い」(メリムナム)があることは仕方がないことでしょう。そんな弱い私達に主は、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と命じておられます。このことは矛盾ではないでしょうか。それが、このところの主の言葉は矛盾ではないのです。本日の御言葉は前節の「思い悩むな」の文脈の続きです。本日の御言葉は、私たちの思い煩いは捨てて良いと語っています。その理由は、私達の命と体は主が養って下さるからです。私達が思い煩う時も無い時も、主の愛と養いが離れることはありません。これを神学用語で「エセ ボヌム」(良き本性)と言います。「心の奥底にある不安から自由である(良い)存在」のことです。主は全ての被造物を愛し、守り、養って下さっています。本日の御言葉は、先に「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」があって、「施しなさい」の順なのです。どんな時も、あなたから神の国が離れることはない。だからどんな時も神の国で憩いなさい。そのことが「神の喜び」なのであるとルカは語っているのです。では「神の国を生きる」とは具体には如何なることなのでしょう。それが次節の「目を覚ましている僕」です。初めに答えを語るならば、天国を実現するために仕えなさいと言うことです。この喩に出て来る主人は、僕たちに仕え、給仕してくれています。この姿は主イエスの姿です。先週に、お語りした「主の洗礼」は主の公生涯の初めを語ります。神と人に「仕える」人生の始まりです。主は、その公生涯の姿に倣うように言われているのです。この命は、愛の国(天国)を実現する姿です。私達には多くのものが与えられています。天国の宝の管理を任されているのです。マザー・テレサの「死を待つ人の家」で「仕える」人々は一様に楽しそうです。神と人に仕え、充実しています。又、それだけではなく、入所している人たちも又、楽しそうにしている人が多いということを聞いたことがあります。私達は「神の国を生きる」ことができます。しかし、思い煩いを捨て、主を信頼して、自分を捨てる必要があります。主は天国を喜んでくださいます。喜びに溢れて、主と共に天国を造り上げましょう。