10月12日(日)聖日礼拝

「聖 書」

ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。

(列王記 下 5章14~17節)

説 教「わたしの仕えている主は生きておられる」

本日はエリシャの語った「わたしの仕えている主は生きておられる」の御言葉から「まことの信仰」について学びたいと願います。エリシャは病から癒され贈り物を差し出すナアマンに「受け取らない」と言います。その受け取らない理由として、「主は生きておられる」と言ったのです。この意味は如何なる意か。これは「奇跡」は神の業であるということです。エリシャは「神にのみ栄光」を帰しているのです。それゆえ、ナアマンは「土」を持ち帰り、まことの神に礼拝を捧げる心を見せたのです。このことが事実なのは、後節に記された従者ゲハジの、神に栄光を帰さない者の末路が描かれていることからも分かります。エリシャの、この信仰者のあり方は私共の模範です。エリシャはエリヤの弟子として、又、後継者としての生涯を歩みました。エリヤが亡くなる前に「何を願う」と聞かれ、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言いました。彼は霊を求めたのです。彼はエリヤから外套を受け、正式な後継として立ちました。霊の二つ分を受けたのです。ですからエリシャの預言者の生涯は初めから「奇跡」(神のしるし)の連続でした。エリヤの正当な後継者であるエリシャの生涯を一言で表すならば、「霊を求め、主の御心と神の栄光の為に生きた」です。彼の奇跡の数々は主イエスの「奇跡」(セメイオン)とつながっています。「ヨルダン川を分ける」「水源の塩の清め」「油を増やし、貧困から救う」「子どもを生き返らせる」「パンの増加」「斧を浮き上がらせる」、そして本日の「ナアマンの重い皮膚病の癒し」等々、彼の語る預言の成就も含め、主の業と重なります。聖書は全て主イエス・キリストを語るものです。私共には不思議としか思えない「しるし」(セメイオン)と「型」(トュポス)が記されています。「永遠の命」「復活」「昇天と聖霊降臨」このことは信仰者にとって大切な事柄ですが、旧約の時代から語られていたことです。エリヤ、エリシャ、ヨナは弟子関係にありますが、エリヤの「昇天」後の「聖霊降臨」、エリシャの「死」後、人に「命を与える」、ヨナの「陰府」からの「復活」、その全ては「主イエス・キリスト」を語るものです。私共は現実の神の前に立っています。聖書の語ることは現実です。私共に「からし種一粒の信仰があれば」、神の愛の現実が見えます。神が私共を救うために「イエス・キリスト」を送られた現実が分かります。信仰を得るならば、なんでも可能です。全ての願いが「神に栄光を帰す」ものであるからです。私共もナアマンの如く、土が土に還るまで主に栄光を帰しましょう。