「聖 書」
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。…
しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
(テモテへの手紙二 4章6~18節)
説 教「今や、義の栄冠を受けるばかりです」
「創立100周年記念」の日の礼拝の御言葉と同じものです。何故、同じものを用いるかと言いますと、当日は、この御言葉を先達のキリスト者を偲ぶために用い、解き明かしをしました。本日は、この御言葉を「私共のため」に用い、解き明かしをしたいと願ったからです。私共も又、パウロ先生の如く、人生の最期の時を迎えます。私共は最期の時に、「何を思い」、愛する者たちに「何を遺し」、「何を語る」のか。本日は、このことをじっくりと想い、御言葉と向き合っていただきたいと願います。本日の御言葉でパウロ先生は愛弟子テモテに、最期の言葉として何を語られたのかを解き明かし致します。先生は最期の時を思い、「私は、今や、義の栄冠を受けるばかりです」と語りました。「罪人の頭」と語っていた先生は何を根拠に、そう語るのでしょうか。それは、御心である「決められた道を走りとおした」時に常に共にいて下さった「主の臨在」が、そう言わさせ、先生に確信を与えられているのです。この証拠の言葉は、17節「主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」と18節「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。」と書かれてある箇所です。パウロ先生が愛するテモテに「遺したい言葉」は、「主がいつも共にいる」(臨在の恵み)ということです。先生にも宣教活動の中で、多くの思い煩いを経験しました。それは「個人的指示」にも記されていることを読めば、よく分かります。その内容を読む限り、私共が教会生活を送る中で経験する数々の思い煩いと何も変わらないことを実感します。私共は、キリスト者になってからも多くの問題や悩みを経験します。その時に私共は世の人と同じなのでしょうか。私は違うと思います。私共が世にあって辛いことを経験する時、私共は「祈る」ことができます。私共は「主の言葉を待ち望む」ことができます。「御声(御言葉)が与えられ」ます。そして「奇跡(しるし)」を経験します。主が共にいて下さる「奇跡」を経験するのです。「臨在の主」が共にいて下さる。何という恵みでしょうか。私共は「どんな時」でも主を証しすることができるのです。私共に出会う人々に「主が共にいて下さる恵み」をお見せすることができるのです。パウロ先生はテモテに「臨在」に生きよ。主に感謝して生きなさいと語られたのです。本日の御言葉の締めくくりの言葉は、「主に栄光が世々限りなくありますように」です。主にすべての栄光を帰した人生でした。22節の結びは涙なしに読むことができない箇所です。主に栄光!