「聖 書」
では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙 8章31~39節)
説 教「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」
11月に入りました。本日は午後から「秋の「尼崎竹谷教会」集会」を催します。地域の皆様の為にお祈り下さい。「祈りは力」です。祈る私共に祝福があります。主の恵みに感謝を捧げつつ、お祈り下さい。さて、11月は、「聖霊降臨節」の締めくくりの時です。「聖化」「栄化」「終末」の恵みを覚える時です。キリストの恵みが皆さんにありますように。神の愛が皆様を守りますように。新しい年を霊の命が燃やされ、希望を得て歩めますように、祝福のお祈りを捧げます。本日の御言葉の見出しを御覧下さい。「神の愛」となっています。キリスト者は永遠に、この神の愛を生きていきます。このことを悟ることができる人は幸いです。先週の御言葉で、パウロがテモテに遺す「最期の言葉」を聞きました。「今や、義の栄冠を受けるばかりです」この言葉は、神が、どんな時にも共にいて下さった、いえ、いつも共にいて下さることを語るパウロの告白であると申し上げました。パウロ先生が愛弟子に語る最期の言葉は、「主があなたの霊と共にいてくださるように、恵みがあなたがたと共にあるように。」でありました。この言葉こそ、パウロの信仰の体験であり、最期に送りたいものでした。彼が確信を持って、天国を得ていたことは「主が共におられる」体験から来るものでした。彼の信仰の力の源です。本日は、この信仰の確信を語る体験を具体的に二人の先生の証しから聞きたいと思います。一人は長沢崇史先生です。先生は牧師家庭で生まれ、育ちました。先生は信仰はありましたが、世に引きずり込まれ、生きる意味を失いました。その彼が、飢え渇きを覚え、神に祈ることを通して、神を体験しました。「賛美の中で主が優しく心に触れて下さいました。どれだけ愛されていたか。どれだけ思われていたか。こんな自分をそれでも諦めず待っていて下さったイエス様の両手を感じ、涙が止まらなくなりました。」もう一人は松原宏樹先生です。先生は今は牧師をやめて、「小さな命の帰る家」の代表をしています。先生は昔から優しく行動力のある方でしたが、私が初めお会いした時には目力の強い方でした。責任感の強さゆえであったと思います。しかし今は、目力が慈母の目になっているのです。先生は小さな命を引き取り、証しを書かれています。「不思議なことですが、どこを訪問するときも神様の御手を背中に感じて訪問させてもらっています。それはいつも自分の力や知恵や経験をはるかに越える領域ばかり歩んでいるからだと思います。」「神の臨在としか表現しようもない」パウロ先生は「神の恵み」を8章で語り抜いたのです。