1月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」

神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

(コリントの信徒への手紙 一 1章1~3節)

説 教「召されて聖なる者とされた人々へ」

私は2014年の「教会標語」「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)の解き明かしの時に、ミシェル・クオスト神父の「詩」「神に聴くすべを知っているなら」(主よ、「はい」と言わせて)を御紹介致しました。本日もお配りしています。私は以前から、何故献身者にも多くの困難が訪れるのかと思っていた時があります。逆に、謙遜な小さな方が大きな教会を牧されることが多いのは何故なのかと不思議に思うこともありました。今は、その意味を理解できます。教会には神に召された信徒がいます。信徒は牧師に求めることがあります。それは謙遜に神に仕える心(魂)です。自らの自我に死に、神に委ねる信仰に生きている姿です。このことは簡単な事ではないと思います。ですから主に召された方は「すべてを捨て、すべてを主に委ねる」覚悟を持ち、献身する決意が必要なのです。私の献身は中途半端でした。ですから苦しみを多く経験し、「明け渡し」の献身ができるまで、主が伴われたのです。これは私だけではなく、多くの牧師が、牧師になってからも経験されているのだと思います。本日の御言葉を御覧下さい。聖パウロがコリントの教会の人々に、「神の教会」へと挨拶を始めています。コリントの町は退廃の町で、そこに住む人々は「聖なる者」とは程遠い生活をしていました。その町に住む「召された者の群れ」を「神の教会」(エクレシア)とパウロは初めに語ったのです。神の教会とは「神に召された者の群れ」の意味です。私達は「神の教会」(エクレシア)に招き入れられた(エクレゼーテ)のです。この意味は、「神との交わりに招き入れられた」ということです。先週の「主の洗礼」の説教の中で、私達は人間として「正しい行い」(義)が求められていると語りました。それは悔い改めを為し、「聖霊のバプテスマ」を受けることであると申しました。私共は「聖霊の洗礼」を受けて、新しい「いのち」の道を歩んでいくのです。本日の説教題である「召されて」は(クレートス)です。その意味を端的に語るならば、「神の意志を実行する者とされる」ということです。自分の計画ではなく、神の計画、神の御旨に聴き従う人生を歩んでいくの意味です。しかし、これは「召されて」いないと思う方も、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」も同じです。「聖なる者」とは、「神の声を聴き、神の御旨を生き、神の計画を実現し、神の恵みと平和を生きる者」であるからです。神は私共に期待しておられます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」私共に向けられた言葉です。