「聖 書」
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
(マタイによる福音書 5章13~16節)
説 教「あなたがたは世の光である」
本日の御言葉の最後の句に「あなたがたの立派な行いを見て」とあります。誰に向けて言われているのでしょうか。そして「立派な行い」とは如何なることを主は言っておられるのでしょうか。本日は、この「立派な行い」を知ることが大切な鍵となります。本日の御言葉は大変有名です。しかしその解き明かしは簡単ではありません。本日の御言葉は前句の「迫害を受ける」ということと絡めて語られているからです。勿論、山上の説教の続きでもあります。山上の説教の冒頭では、「その人たち」と三人称で語られています。主の前に来ている人たちは「心の貧しい人々(私)」という一人称です。その人々(私)は選択を迫られています。まことの幸い(マカリオス)を得るために「主に従う」ことをです。11節以降の御言葉では、「わたし(イエス)のために」とあります。その続きは「あなたがたは幸いである」とあるのです。この「あなたがた」(二人称)は「主の弟子」のことです。マタイ書は「主の弟子」に重きを置いて書かれていると言われています。マタイの当時の教会では、主の弟子たちが迫害を受けて生活することが日常化していました。マタイは、その人々を励ますためにも福音書を書いたのです。本日の御言葉の冒頭も「あなたがた」となっています。迫害を受けている弟子たちの事です。その迫害を受けている弟子たちは「地の塩」「世の光」であると直接法で言われています。いつかなれとか、いつかなるという意味ではありません。主の弟子であることで「既になっている」という意です。彼らは自分の十字架を負いながら、主に従う人生を歩んでいるのです。その彼らが「塩に塩気がなくなれば、外に捨てられ」と言われます。「効き目がない」は(モライノー)です。「愚かになる」の意味です。これは折角、主に光を見て、主の言葉に従う人生を選び取ったのに、また世に帰って行く「愚かさ」を語るものです。私共は「世の光」です。私共は世が「闇」であることを知る者であったのではないでしょうか。私共は光を見出したのです。その光を闇の中にいる人に知らせなくて、何がクリスチャンでしょうか。「光の子として歩みなさい」(エフェソ4:8)「あなたがたの内に働いて、…神の子として、世にあって星のように輝き」(フィリピ2:13-)「立派(カロス)な行い」は「美しい行い」です。私共は闇の中で輝くのです。「闇」は「愛のない希望のない世界」です。「迫害」は、世のサタンとの戦いです。地の罪との戦いです。己の罪との戦いです。私共の主にある勝利(美しい行い)は、主の栄光を現し、人々が天の父を崇める為です。