2月15日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さい掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするようにと教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」…

「…しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 (マタイによる福音書 5章17~37節)

説 教「そこは神の玉座である」

「山上の説教」が続いています。「山上の説教」は7章まで続き、8章にて主は山を下りられます。本日は「律法について」です。長い語りですが、語られている本質は一つです。主は律法について「権威」をもって語られています。主は「わたしが来たのは律法や預言者を完成するためである」と語られ、続いて「~と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と言われました。当時の宗教権威者の目には「不遜な者」と映ったことでしょう。しかし主は、律法そのものであり、聖書であり、みことばのお方ですから、主の言葉は真実です。当時の律法は本質から離れ、「いのち」が失われていました。「心の貧しい人々」に「まことの命」を与えるものではなかったのです。宗教権威者の語る「義」は口先だけ(神不在)のものでした。律法を都合よく解釈し、人間主義宗教と成れ果てていました。その証拠に、「然り、然り」「否、否」と言い、「天」「地」「エルサレム」「頭」に誓ったことは(神の名をみだりに唱えないという名目)、「神」の名に誓っていないので、誓い(約束)を果たさなくても許されると解したのです。なんと不誠実なことでしょう。主は律法の名のもとに、神に対し、不遜な心を糾弾したのです。主は律法を全う(完成)されました。律法を愛とつながりの本来の意義へと戻されたのです。その究極な姿が「十字架の贖い」の死と復活です。律法は愛です、いのちです。聖書は主を語るものです。主は御言葉です。私共の「義」が宗教権威者の義にまさっていなければ、私共は天の国に入ることはできません。その「義」とは何でしょう。それは「主の言葉に従い、互いに愛し合う」ということです。21節から32節までの主の言葉は厳しく聞こえるものです。しかし主の弟子である私共クリスチャンには、聖霊の働きを通して、主が言われていることは最もな事であると「良心」が教えていないでしょうか。私共は世に対して、地に対して「然りは然り」「否は否」と誠実に向き合うべきです。私共は「小さく、弱く、自分に甘い」者です。いつ主に対して、人に対して罪を犯すかもしれません。その通りです。しかし私共は大丈夫なのです。私共の群れは「お従いの群れ」です。主には「然り」(はい)と言い、サタンには「否」(いいえ)と言うことができます。主に「然り」「否」と言うことができます。それは誓わなくても私共の傍に「神の玉座」があり、いつでも額ずけるからです。「神の玉座」は「愛の王の前」です。私共は正しく主の前に出て行くとき、愛の王の「権威」」が私共を守られるのです。アーメン