7月16日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 大勢の群集がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群集は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

(マタイによる福音書 13章1~23節)

説 教 「実を結ぶ」

 本日は有名な御言葉です。日曜学校でもよく語られていることでしょう。本日はあえて「たとえの説明」まで読んでいただき、少し長い御言葉の解き明かしとなることをお許しください。本来は前文の「たとえ」を私が解き明かしを為すのが務めだと思うのですが、本日は「たとえ」の説明まで記されています。もうお読みになれば本日は分かるというものではないでしょうか。それでも尚、御言葉は生きていますので、少し違う角度から本日は解き明かしを為したいと考えています。本日の一括りの長い御言葉は「たとえ」となっています。「たとえ」はパラボレーで、「格言、比喩、なぞ」の意味です。「たとえ」は「謎」の意なのです。マタイ書には12の「たとえ」が記されていますが、本日の御言葉は、その最初のものです。そして13章全体を通しては、その全てが「天の国のたとえ」となっています。何故、イエス様は「たとえ」を用いてお話をされたのでしょうか。その答えも本日の御言葉が教えています。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」イエス御自身の言葉です。悟ることが許されていないのならば、「たとえ」の説明は不要です。また悟ることが許されている者は、もう既に理解しているので、これもまた説明は不要です。にも拘わらずに「たとえの説明」が記されていることは矛盾ではないでしょうか。ですから、この「たとえの説明」は教会が解釈をした後筆(追加記事)ではないかというのが定説となっています。そのことを踏まえた上で、先に進みます。本日の記事はマルコ書を底本にしてマタイ書が記したものです。しかし二つの記事には違いが見られます。マルコ書では、蒔かれた「種」は、30倍、60倍、100倍の実りをもたらすと記しています。違いがお分かりでしょうか。そうです逆になっているのです。蒔かれた「種」は100倍、60倍、30倍となる。マタイ書の記述です。間違いでしょうか。それはそうではありません。そのことは他の違いを見れば分かります。「ある者」は30倍。マルコ書です。「あるもの」は100倍。マタイ書です。違いは明白です。マルコ書は御言葉の実りを人に当てはめています。マタイ書は、それを知りつつ、御言葉の実りを、人の霊的成長を比べるものとして語らず、「御言葉」(種)の「実り」の豊かさに焦点を当てているのです。キリスト者は洗礼を受けてから「成長」を遂げていきます。それは「実を結ぶ」ことです。その「実」とは自分の事ではなく、御言葉の実りのことなのです。