「聖 書」
神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
(ローマの信徒への手紙 8章28~30節)
説 教 「御子の姿」
パウロはキリスト者の「将来の栄光」を語っていますが、これは死後の世界のことを語っているわけではありません。これは「現在性」のことであり、「進行形」のことです。つまり本日語られる御言葉は、今を生きるキリスト者に向けられたメッセージとして受け取るべきものです。パウロが「将来」と語っているのは「希望」のことを語っているのです。何に対する希望か。それは前節に記された「霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(8:23)パウロは続けて、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(8:24)と語っています。「希望によって救われている」は「現在性」のことではないでしょうか。これは現実味のない「淡い希望」のことではありません。神が保証された「希望」です。しかし未だ途上であるので、「進行形」でもあるのです。キリスト者の「希望」とは何か。そのことを更に具体的に語るのが本日の御言葉なのです。その「希望」を本日の御言葉で一言で語るならば、「御子の姿に似た者とされる」ということです。このことは別の箇所の御言葉でも多く語られています。「御子が現れるとき、御子に似た者となることを知っています。」(ヨハネ一3:2)「キリストは、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:21)「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(コリント二3:18)私達は「御子に似た者とされる」というのが本日の御言葉の大切なところです。では「御子の姿」とは如何なるものか、皆様はどのように思われるでしょうか。光輝く栄光の姿でしょうか。憂いを含まれたお顔のイエス様でしょうか。そのどれも間違いではありませんが、宣教を「苦難の連続」の中で通って来たパウロにとって、「十字架の主」こそが「御子の姿」であったと思います。キリスト者にとって御心に生きる中で起こる苦しみや苦難は悪いことだけではありません。苦しみに打ち勝つ信仰を得、「敵を愛する」信仰を得られるからです。この信仰を得ていくことこそが、キリスト者の「聖化」の過程なのです。パウロはそのことを実体験として知っていたのです。またパウロは、その「聖化」の道を神が共にいてくださっていることも知っていました。「キリスト者には、万事が益となるように(神が)共に働くということを知っています。」私共もまた御子の姿へと。