「聖 書」
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするにではなく、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それは、キリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
(フィリピの信徒への手紙 2章1~11節)
説 教 「霊による交わり」
本日の御言葉は有名な御言葉で、後半の部分は「賛歌」の形を取る信仰告白文でもあります。ですから皆様も、本日の御言葉はよく耳にしてきたものでもあるでしょう。パウロは本日の御言葉を通して、深遠なる「神学」を提示しているのでしょうか。それは決してそうではありません。パウロは今、ローマにて獄に囚われの身であります。本日の手紙は、その渦中にあるパウロが、自分のことを心配し、贈り物を捧げ、人をも遣わし、この自分を励まし続けてくれているフィリピの信徒に向けた「お礼」の手紙であります。パウロは、その温情に対して、キリストの福音の真実を伝え、「喜び」の「おすそ分け」を彼らに今しているのです。ですからパウロは本日の御言葉にて難しいことを伝えているわけではありません。パウロは福音を生きるが故に「獄に囚われの身」となっています。しかしパウロは、福音の働き故のどんな困難を覚える時にも、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4:4)と彼らに語りました。この手紙が「喜悦の手紙」と呼ばれる所以です。ではどうしてパウロは困難を覚える時にも「喜び」を手にすることができたのでしょうか。それは彼がキリストに倣い、「キリストを模範とする」いのちを生きていたからです。「キリストを模範とする」このことは全てのキリスト者が選び取らなくてはならない生き方です。そうでなければ福音の真実を知ることができません。パウロの語る「喜び」の内実を知ることもできません。パウロは自分を励まし続けてくれているフィリピの人々に今、更に「福音の喜び」に生きてほしいと福音の神髄を伝えようとしているのです。「キリストを模範とする」とは自分を「無」(ケノーシス)にして、神の言葉に「従順」に生きるという事です。そこにこそ「魂の喜び」を経験する神秘があります。私は牧師になるにあたり全てを捨てました。キリストを模範とする為です。しかし、捨ててみて初めて分かることがありました。自分のものであると「固執」している時には見えなかった、見えないものの大切さです。自分が生きるために、最も大切なものは何かということも知ることができました。それは自分に与えられた「人」であり、神を信じることができる「恵み」です。パウロは全てを失っても、なお失うことのないものを手にしていたのです。それは「信仰」であり、「魂の喜び」です。パウロの語る「霊の交わり」とは、交わりはコイノニアで、「分かち合う」の意です。パウロは信仰の喜びを分かち合う仲間になろうと語ったのです。