「聖 書」
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
…わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
(フィリピの信徒への手紙 4章12~20節)
説 教 「対処する秘訣」
パウロは手紙を締めくくるにあたり、フィリピの教会が獄中の自分を援助してくれたことに感謝し、神とキリストに満たされる生き方を最後に賛美し、稿を終えている。パウロの「生きるのも死ぬのもキリスト」の真実が最後まで貫き通されていることに、同じ信仰者として強く励まされる文章である。さて本日の御言葉で、少し違和感を覚えるところがある。それは、自分に励ましの援助をしてくれた教会の人々に対して、「物欲しさにこう言っているのではありません。」「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」等の言葉を最後に残していることである。ただ「ありがとう」の言葉だけで良かったのではないか。この違和感を解消するために、パウロの語る「いついかなる場合にも対処する秘訣」の意味を少し掘り下げる必要がある。ここで記された「対処する秘訣」とは、パウロの幾多の困難な伝道生活を支え続けてくださった神に対する信頼の強さが、この言葉の背景にはあると一般的には読み取れるところではないか。しかし私は違う読み方をしたい。本日の御言葉の中で、パウロは違和感のある言葉を語った後に、「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。」と語った。パウロは本日の言葉を通して、なおフィリピの人々に「豊かな実」を望みつつ、信仰の内実を伝えようとしているのではないか。その証拠に、贈り物への感謝の言葉を述べた後、「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」と語っているからである。本日の御言葉の解き明かしは私は次のように智が与えられている。フィリピの人々の贈り物は、「神が喜んで受けてくださるいけにえ」である。神への「奉献」である。パウロ個人を単に援助するものではない。私パウロは、あなたがたの愛と神への献身に感謝を捧げ、励まされているのだと読み取ることができる。そして、その贈り物に込められた「愛の関係」こそ、「アガペーの食事」であり、「エウカリスティア」(聖餐)の真実の姿なのだとパウロは伝えたいのではないか。その「共同体」(コイノニア)の中にある感謝こそ、結びの言葉の意味ではないか。パウロは3章において、「肉に頼らない」と語っている。彼は神を信頼し、信仰の友を信頼し、すべてに「満ち足りて」いるのである。その信仰(信実と信頼)こそ、パウロの語る、すべてのことに「対処する秘訣」の内実なのである。パウロは教友に対して、わたしの喜びであり、冠である愛する人たちと呼んだのである。